「ステロイドで人生を滅茶苦茶にされて」 匿名希望 60歳 私は今年平成9年3月で満61歳になりました。私の人生は24歳で結婚してからしばらくして、61歳までアトピー性皮膚炎との戦いの日々だったという気がしています。あの辛い苦しい日々、死にたいと毎日思っていた日々に事を思い出したくなかったのですが、松本先生が書いてみるようにと勧めて下さったのをきっかけに筆を執る気になりました。(このような手記はただ単に私の理論の正しさを証明してもらうために書いてもらっているのみならず、患者さん自身が今まで苦しんできたアトピーと決別するために心の整理をしてもらうという意味合いも有ります。勿論、他にこれからステロイドを抜こうとする人達の得がたい励ましとなることは言うまでもないことです。)それに今年から主人が会社勤めを終えて毎日が日曜日なので、主人に対するすまなかったという気持ちと、また感謝の気持ちを表さなければという気持ちで書いてみようと思いました。 もともと皮膚が弱かったということもありましたが、(皮膚が弱いという言い方は極めて素人的ないい方であり、いわゆる皮膚過敏症というものであります。しかしこの皮膚過敏症という言い方も真実を伝えていません。本当に正しくはアレルギー性皮膚炎と言うべきものです。これをアトピー性皮膚炎と呼んでいます。)"アトピー性皮膚炎"と診断されたのは、長男を出産してから手が荒れてプツプツと水泡のようなものができて、痒くて痒くて仕方がないので皮膚科に行った時でした。皮膚科で頂いた塗り薬で治ると信じ、一生懸命塗っていました。治るような気がしていてもなかなか治らず、治ったように見えていても今度は必ず前よりも範囲が広くなり、手の甲から腕の方まで広がってきて、私はお医者さんに「これはどうして治らないのですか?」何度も何度も聞き返すのですが、「生まれつきの体質なので治らない。」といわれ、がっかりしました。(アレルギーを起こす抗体をこの時代はレアギンと言っていました。1966年に日本の石坂公成・照子夫妻によって発見されノーベル賞候補にも挙げられたくらいでした。彼らもアレルギーの治療の為に更に研究を続けたのですが、結局その方法を見つけることが出来なくてノーベル賞を逃してしまいました。実を言えばアトピーについてはその答えは「何もしないで放置し、皮膚の傷を治しブドウ球菌を殺すだけで治る。」というのが答えだったわけです。勿論ほかのアレルギーによる喘息や鼻炎や結膜炎は漢方で治るというのが答えであります。)長男の次に2年ほどして妊娠が分かりましたが、残念ながら産むことを止めました。その頃から背中にも足にも広がっていました。なるべく飲み薬を止めようと思いましたが、あまりの辛さにまた一錠また一錠と飲んでしまいました。(これはまさにステロイドの錠剤でありました。)自分の意志の弱さがつくづくと嫌になりました。こんな体質に生まれてきてと自分を恨み、両親をも恨みました。(親が悪いわけではありません。ステロイドが悪いのです。医者が無責任だからです。)長男を育てながら病院探しの毎日でしたが、どこの病院へ行っても見立ては変わりません。「アレルギーに悪い食べ物は止めるように。」といわれ、(食べ物が悪いのではなくて、食べ物に含まれている化学物質が悪いのだということを繰り返し述べておきます。)買い物に行っても何を買っていいやら、私に悪くても主人や子供のこともあって普通の人と同じ食べ物を食べさせないといけないし、毎日の食事作りにほとほと困りました。手を掻くので膨れ上がっていてジュクジュクしていますし、綿の手袋の上にビニールの手袋をはめて家事を一切しました。痒くて痛くて手首から切って欲しいと母にすがって泣いたことも度々です。長男を出産してから4年目にまた妊娠してしまい、降ろそうかとも思いましたが、前のことを思い出し今度は覚悟をして産む事にしました。飲み薬を止め塗り薬だけにして出産を決めました。(ここまで書いてきたら、胸が詰まって泣けて泣けて。)(アトピーの間違った治療の為にこのような苦痛を耐えねばならないことを考えると、本当に現代医療の過誤に対して激しい怒りを覚えます。この患者さんもこのような個人的な苦しみを吐露してくれたのも私がアトピーを治してあげると伝え、その言葉を信じてくれたからです。勿論今では治療のはじめと比較できないほどに皮膚は正常に戻りつつあります。) でもその時は体の3分の2は湿疹はできていました。お腹の子供が5ヶ月目に入り腹帯をする時期になり、一応は腹帯をしますが、今度はその帯の下の下腹部が痒くなり、夜中に帯を取ってしまいます。昼間は我慢をしてつけていますが、夜は取るので、産婦人科に2週間に1度診察に行くと逆子になっています。元に戻して下さっても、また逆子になっています。そんな状態で出産を迎えました。産まれてきた子供は首が曲がっていて、足も片方が足首から曲がっていました。3日間赤ちゃんを見せてもらえませんでした。母は心配で心配で私にどう話していいか分からなかったらしいです。でも整形外科で診てもらうと、マッサージを続けてしていくように言われ、「1年間続ければ治るだろう。」といわれたそうです。1週間で病院を退院してから、帰ると次の日から週に3回通院が始まりました。産後なのに、赤ちゃんを連れて1時間以上かかって電車やバスに乗り、病院通いが始まりました。4歳の息子の世話と次男の病院通い、自分の病気との闘いととてもとても辛く苦しい日々でした。この子をかたわにしたら私の責任だと必死でした。主人の母・私の母・主にヘルパーさんには助けていただきながら1年間を過ごしました。5月に産まれたので、暑い夏・秋・寒い冬をしのぎ春が来る頃には、首の方も(足はもっと早く)良くなっていきました。診察を受けたら、「もう月に一度位でいい。」と言って下さって、やっと病院通いが解放された頃には、私の体はボロボロでした。整形外科は終わりましたが私の体質に似て、やはり次男も喘息の発作を起こしました。春から夏にかけて次男と私のアトピーとの新たなる戦いが始まりました。次男が1歳半の頃、私一人家を出てどこへ行く宛もなく、フラフラと駅の方まで行っていました。とっさに実家の父に電話していました。実家に帰ろうと思っていたのかも知れません。父は「二人の子供のためにも家に帰れ。」と言いました。その後、とぼとぼと家に帰りました。部屋には入れず、玄関の床の上で朝まで夜を明かしました。それからまた何カ月かが過ぎ、今度は次男を抱いて、夜中に家を出て池の畔を歩いていました。死のうと思っていたのかも知れません。(このようにアレルギーの為に実際に自殺したという話を聞くことがあります。アレルギーは不治の病ではないのに本当に無駄死にの一言に尽きます。)1歳半の子供を連れては死ねませんでした。また、玄関をそおっと開けて、板の間で朝まで座っていました。主人の仕事の関係でそこに住んでいたときは4回目の引っ越しの土地でした。ご近所の人に慣れたかと思うとまた引っ越しです。今考えてみると、環境にも慣れずストレスの塊だったのだと思います。病院もそんなことであちらこちらと変わっていました。手の方があまりにひどいので入院をするのですが、副腎皮質ホルモン剤を塗り、少し飲んで10日程で良くなると退院するのです。家に戻ると、子育てと家事でまた悪化します。長男が5年生、次男が幼稚園に行くようになった頃、高槻の地に越してきました。子供の手が放れてきましたので、ホルモン剤を止める決心をしました。その頃から自然療養や漢方の勉強を始め、あれやこれやと手をつけて試してみました。温熱療法の先生にもまで診てもらったこともありました。それでも思うようには治らず、梅雨から夏にかけては辛い日々でした。ホルモン剤を一切塗布も飲用も止めたのは40歳前だったと記憶しています。それからが副作用との戦いです。決心した理由は高校生と6年生になっていましたので、私がどうなっても生きていってくれるだろうと思ったからです。病院には一切行かず、一人で副作用との戦いでした。(また胸が詰まって書けません。)(これだけ過剰だと言っても良いくらいに多くの病院があるにもかかわらず、私の医院に来るまでこの患者さんの苦しみに対してまともに誠実に引き受ける病院がなかったという事実はどのように考えれば良いのでしょうか?この方は医者を信じることが出来ず、自分一人でステロイドを離脱しようとしたわけです。つまり医者の作った病気を一人で治し始めたというのは一体どう説明すれば良いのでしょうか?何の為に病院があるのでしょうか?)全身から膿のような汁状のものが出てきて、パジャマは夜中に2・3回取り替えます。いつもいつもボトボトになります。そんなことが周期的に繰り返されていました。主人は入院を勧めるし、両親はおどおどするし、私一人が自然治癒を待っているわけです。「何か私を救ってくれる神様か仏様がいらっしゃるのではないか。」とそれを信じて暮らしていました。漢方薬の薬局もあちらこちらと変わりましたが、40歳の時急に目が見えなくなりました。(網膜剥離の為に見えなくなったのです。)「いよいよ私ももうだめか。」と思い不安で不安で心の中をどう説明したらいいか分かりませんでした。入院して目の手術を受けることになりました。皮膚科に連れて行かれ、塗り薬で痒みを止めて手術を受けました。1ヶ月程入院していましたが、右目は失明で左眼だけがかろうじて助かり、眼鏡をかけて0.6まで見えました。「そんな体でもう何年生きられるか?」と、もう人生を投げ出していました。母は私を殺して自分も死ぬと言っていました。私もそうなればどんなに楽になるかと思いました。でもできませんでした。私の心の支えは二人の子供でした。長男は高校2年から朝刊の配達を始めて頑張り、次男は中学校では体を鍛えるためにバスケットを始めていました。二人の子供が成長していく姿を見ていると、こんな体でも生きていこうとと思うようになりました。主人は私の苦しみを見ながらも仕事一途の人だったので、冷たい人だと思いましたが、今思うと、マイペースで生きていってくれたことこそが何よりの救いだったような気がします。それと単身赴任が10年間の間に2回もあり、定年まで地方に行っていましたのでそれも良かったと思います。 松本先生にお世話になったときは副腎皮質ホルモンを止めて10年以上は過ぎていたと思います。(10年以上かけてもステロイドの影響はまだまだ除去されてはおりませんでした。最近も厚生省はステロイドを慎重に使うようにと研究会の結果を発表しましたが、私はこの発表にはとても不満であります。さらに一歩踏み込んで、患者さんに対してステロイドは一時的に症状を止めるだけの対症療法であり、長期に用いると必ず副作用が出ると言わなければ医者は罰せられるという法律を作ってもらいたいと思います。)初めて診察を受けたとき、先生と意気投合してしまいました。医療に対する考え方を色々と話しました。若かった頃の私はお医者さんを信じるしかなかったこと、一時はお医者さんが信じられず病院嫌いになったこと、良く効く薬は副作用も大きいこと、偏った心になっていたと思いますが、今は西洋医学と自然療法とを上手に取り入れて治していきたいと思います。(アトピーの治療で西洋医学の力が必要なのは、やはり感染症を引き起こすブドウ球菌に対しては抗生物質とヘルペスウィルスに対しては抗ウィルス剤だけであります。他は自然の生薬である漢方薬を用いれば必ずアトピーは治るのです。)今地球は汚染され、水・空気・食物は何を口に入れていいか分からない時代で、オゾン層も破壊され紫外線も皮膚に悪いということ、人間や生物が生きにくい時代になっています。でも生きてきたからには、寿命が終わる日まで生きなければならないのなら、毎日を明るく前向きに、過去のことにはくよくよせず、アトピーちゃんとも仲良くしていこうと思えるようになりました。以前は、世間の冷たい目に屈辱を感じたことも度々でした。何も悪いことをしたわけでもないのに、太い眼鏡をかけて、赤黒い顔をし、手も汚く、これは仕方のないことだと思いますが、家の隅で泣いたことも度々でした。いつの日かきれいになり、死ぬ前にはアトピーともお別れしたいと希望を持って暮らしています。お陰様で少しずつきれいになってきていますので、今までに心配や迷惑をかけた家族をはじめ周りの方々に少しでもお返しをし、前向きに生きていく考えであります。二人の息子もよい歳になり、社会で活躍してくれています。二人の息子にはどんなに感謝しても足りないと思います。それに、主人と両親にも同じ気持ちです。両親は85歳と83歳になりました。今まだ元気に暮らしています。私が元気になった事で少しは両親に孝行できたかなあとも思いますが、まだまだこれからお返しをする機会が有れば有り難いと思います。父には金銭的にも随分助けてもらいました。 2月位から書き始めたのですが、なかなか筆が進まず、とうとう6月に入ってしまいました。副腎皮質ホルモンの恐ろしさを一人でも多くの人に分かって欲しいと思い、つれない文章で読みにくい面も多々あったと思いますが、やっとここまで書けました。もっともっと書きたいことがいっぱいあったようにも思います。あの薬を使わずに治療ができていたら、私の人生も別な道を歩いていたのかも知れません。これは愚痴になりますが、これからは残りの人生を有意義に暮らしていきたいと思っています。(この手記は単なるアトピーの治療歴についての文章ではありません。いわばアレルギーと間違ったアレルギーの治療により人生を狂わされた真面目に立派に生き続けている一女性のささやかな自叙伝と言っても良いくらいです。このような苦しい秘密を私に語ってくれたことは、私がいかに患者さんに信頼されているかを知ってこちらも涙が出るくらいでした。まさに医者冥利につきる瞬間であります。この瞬間があるが故に、医者は辞められないのであります。この患者さんもさらに皮膚の状態が良くなり、正常な生活を手記の通り力強く歩んでおります。私を信じてくださって本当に有難うございます。) |