松本先生から頂いた私の第三の人生東村美幸 46歳

大阪府 

2002年10月1日

 

松本医院を初めて訪ねたのは、21世紀の幕開けである2001年の1月5日でした。奇しくも、それは私の第三の人生の幕開けでもありました。リウマチの発病以来十数年、開かれることはないと思い詰め、さらには自らその幕を閉じようとさえ思った人生の、第三の重い重い扉を松本先生に開けて頂いたのです。

生まれた時が人生の始まりで、結婚は第二の人生などと言われますが、私は今、松本先生に開けて頂いた第三の人生を謳歌しています。昨年秋よりパソコンを習い始め、箸を使うのにも支障を来たしていたこの指でパソコンのキーボードを打ち、この手記を書いています。着物の着付け教室にも通い、ボランティア活動であちこちに出かけ、主人と車で軽井沢に旅行も出来ました。

リウマチは難病・不治の病と言われ、ありとあらゆるものに救いを求めた私ですが、今心から素直に、大いなるもの(神様)に対して、松本先生に出会わせて頂いた事、そして私を支え続けてくれた主人がいてくれる事を、深く感謝しております。

 

(1)発病

 それはある日突然、何の前触れもなく起こりました。平成元年初夏、33歳だった私は第三子を身ごもっており、妊娠三ケ月でした。まさに突然、左腕に激痛が襲ったのです。何の前触れも無くと書きましたが強いて言うなら、上の二人の娘の時より悪阻が大変軽かったことでしょうか。免疫システムが胎児を異物と認識したために起こる一つの症状を、悪阻とするなら、その悪阻が軽かったということは、悪阻とは異なる症状で異物を吐き出そうとしたと考えられるかもしれません。私の第三子の妊娠の場合は、関節からの吐き出し、つまりリウマチだったのでしょうか。その痛みは、夜は眠れず時として息も出来ない程でしたが、ニ・三日苦しんだ後は嘘のように消えてしまいました。ところがまた数日すると、今度は右足、その次は右手、腰から左股関節というように一ヶ月ほど続きました。驚いて病院に駆け込むと、産婦人科から内科、整形外科と回されて、検査の結果リウマチだと宣告されました。目の前が真っ暗になり、人目もはばからず流れてくる涙は、病院の待合室の椅子から立ち上がる力をも無くしていました。

 というのは、実家のすぐ近所で家族ぐるみで親しくしていたおじさんがリウマチを患い、痛い痛いと長い間苦しんでいた姿を見ていたからです。入退院を繰り返し、何度か手術を受けたりしましたが寝たきり状態となり、つい最近亡くなられたと聞きました。ご本人の辛さは見るさえ耐え難かったし、お世話されていたおばさん(奥さん)や家族の大変さも身近でつぶさに知っていました。あの恐ろしいリウマチに私が罹ってしまったのです。恐怖というより戦慄に苛まれながら、リウマチ関連の本を読み漁りました。それは皮肉にも、リウマチは現代医学では治らないのだということを決定的に私に思い知らせる結果となり、絶望という奈落の底に突き落としました。

 しかしあの激痛の繰り返しの一ヵ月以後は、それ程の痛みに襲われることはなく、平成二年一月末に無事出産することが出来たのです。治療は、妊娠中でしたので飲み薬はもらわず湿布薬だけで、出産後も母乳を与えていたので飲みませんでした。

 長女・次女と女の子ふたりの後に、主人の待ち望んだ男の子の誕生に大喜びしたのもつかの間、生まれてひと月もしないうちに息子は重症のアトピーになってしまいました。(この息子も松本先生のお世話になり、とても元気にして頂いております。)昼夜無く全く寝付かない息子を痛む手足で抱きかかえる日々は、生きる力を私からさらに奪い取っていきました。主人がいなければ私と息子はこの世にいなかったと思います。息子の一歳の誕生日を迎え(平成三年一月)母乳を止めましたので、再び病院に行き治療を受けることにしました。治らないとわかっていても病気の進行を何としても遅らせたかったのです。

松本先生の理論を読ませて頂くと、一般の病院の治療を受けることは、病気の進行を遅らせるどころか病気を悪くするのであり、その上新たに幾つもの病気を作り出すのですが、悲しいかな、当時の私は何も知りませんでした。松本先生は、絶対ノーベル賞をもらって欲しいこんな凄い理論を、惜しげもなくインターネットで公開され、多くの人々に無償で提供して下さっています。これには本当に頭が下がります。松本先生の理論はまさに『革命的で、天動説を地動説に変えたコペルニクス的転回』です。しかし当時のコペルニクスが凄まじい迫害を受けたように、松本先生も大変なご苦労をされておられます。それは先駆者や天才の多くが偉大なるが故に辿る道程とはいえ、一日も早く、松本先生のこの素晴らしい真実の(正しい)理論が、地動説のように全ての人々に当たり前になる日が来ますことを、願わずにはおれません。

リウマチを宣告された、自宅近くの市民病院の整形外科で診てもらい、何種類かの飲み薬をもらいました。その中にピンクの小粒の錠剤があり、医師は「これは頓服で、痛みが酷い時に飲むように」と言いました。一度だけ飲んでみるととてもよく効きました。でも息子のアトピーのお陰でステロイドの怖さを聞きかじっていた私は、その効き目のよさが逆に疑念を抱かせ恐ろしくなって、それ以後は飲みませんでした。しばらく薬を飲んでもはかばかしくなかったので、何回目かの診察の時「金の注射をしてみましょう。これが効く人もありますから。」と言われ二・三回したでしょうか。体に赤い湿疹が幾つも出来たので止めることになりました。医師に対して不信感が募りましたが放っておく勇気も無く、あちこちの病院を訪ねました。今にして思えば当然のことながらどこの病院も変わりは無く、逆に、自分を追い詰めることになりました。遠方にあったリウマチ専門の病院に行ったことがありました。成る程、多くの患者さんが来ておられ、その患者さんの多くが見るだけで体のあちこちに障害のあることが分かる方ばかりでした。しかし待合室で交わされていた会話、そして医師の診察も、私のほんの少しの期待をも完全に打ち砕くものでしかなかったのです。私は、その患者さんたちに自分のこれからの姿を重ねあわせ、悲嘆のうちにその病院を後にしました。何時しか病院には行かなくなり、代わりに、この頃からクロレラだの何とかエキスだのいいと聞いたものは何でも試してみました。漢方薬の先生の所へ行ったり、通販で漢方薬を取り寄せて飲んだりもしていました。

一年ぐらい経って(平成四年)症状が悪化したので、やむなくまた自宅近くの市民病院に行きました。どこの病院に行っても同じだと解っていたので、家から一番近い所にしただけです。一年前の医師とは変わっていて、この病院に来られたばかりの若い先生でした。鎮痛剤と胃腸薬と湿布薬をもらっていました。その後抗リウマチ剤のリマチルとボルタレン座薬を使うようになりました。薬が変わったり量が増えても病状は良くならず、痛みに苦しみながらの寝たきり生活へ、つまりは絶望という奈落の底へ行き着く緩やかな坂道を、ゆっくりと着実に転がっているように思いました。

有名人が、自分が癌やエイズ、アルツファイマー病であることを公表することがありますが、私は今こうして元気にして頂くまで決して人に病名を言いませんでした。言えなかったのです。リウマチ=あのおじさんの姿であり、それは私にとって恐怖と絶望以外の何ものでもありません。病名を言うこと(自覚し認めること)さえ恐ろしいのでした。更にはリウマチですぐ死ぬことはないということが、かえって私を苦しめました。この強い痛みと倦怠感が延々と続くのか、しかも体の障害が進行して人の世話にならなければ生活出来なくなり、いずれは寝たきりになる、しかし意識ははっきりしていて痛みとわが身の惨めさに苛まれても、それでも生きているのかと思うと堪らなくなるのです。病状(身体)の悪化のスピードを遥かに超える高速で、精神(心)の崩壊が起っていきました。私は、魂の拠り所・魂の救いを求めてさまよいました。この頃もし、かのオーム真理教の誘いがあったなら、私は確実にその毒牙にかかっていたことでしょう。

平成11年四月末、右手首の滑膜除去の手術を受けました。両手首がパンパンに腫れ上がり、日常生活に大きな支障が出てきていたのです。手術後は、腫れもひいて大分楽になりましたが、半年もすると前より腫れが酷くなり機能障害も進んでしまいました。痛む箇所が増え続けることは勿論辛いことですが、それ以上に、どう表現したらいいのか分からない全身の倦怠感(だるさ・しんどさ)も耐え難く感じられました。整形外科である医師には、そうした全身のだるさなどあまり意に介されない風でしたが、痛みや機能障害を訴えた箇所のレントゲンはよく撮ってくれました。そのレントゲン写真を見ながら言われた「破壊が随分進んでいるね。ああ、こっちもだね。手でも足でもどこでも手術したげるよ。」との言葉には、背筋がぞっとしたものです。

平成11年の夏、かれこれ七年間診て頂いたその医師が遠方の病院に移って行かれると、どういう廻り合わせだったのか数ヶ月でコロコロと医師が変わっていきました。ある医師は、私ではなく分厚いカルテを一生懸命見た後「同じ薬を出しておきますよ。」とだけ言われました。別の医師は、「僕、よくわからないんです。どんな具合ですか?大変だと思いますが、負けずに頑張って下さいね。」なんと返答したらよいのか困ってしまいました。でもこの医師が一番正直なのかもしれません。この市民病院で最後になった医師は、小まめに検査をしあちこちのレントゲンを撮ってくれました。首の後ろがとても痛くて、後ろは勿論横を向くのもゆっくり恐る恐るしなければならなり、頚椎のレントゲン写真を撮って診てもらうと「やっぱりここの所が侵されているね。」と言われました。とうとう頚椎にまで来たか。首の手術なんて絶対いやだし、痛い目をして手術をしても無駄なことは体験済みだ。これがこの病院を離れる決心を促した一つ目の理由です。二つ目は尿検査でした。この最後の医師になってから、血液検査とともに尿検査を二度したのですが、二回とも血尿がありました。2000年の12月半ば、その日3度目の検査でも血尿があったのです。医師は「たぶん薬の影響だろう。」と言って、色々なファイルや本を見たり何処かに電話をかけておられました。そして「今すぐには分からない。自分はこの年末いっぱいで転勤するが、それまでに調べてあなたに連絡します。」と言ってくれました。薬の「影響」と言い、医師でない素人の私でも判断のつく「副作用」であるとは指摘せず、その上その薬をいつものように処方されて不信の念が沸きました。でも年の暮れのただでさえ忙しい時期に、しかも転勤されるというのにわざわざ調べて下さるなんてと、私は大層感激しておりました。しかしこの医師からの連絡が入ることはありませんでした。検査数値としてはっきり表れた薬の副作用、それが二つ目の決定的な理由でした。12年前に知っていたし分かってはいたはずなの、リウマチは西洋医学では治らない、という紛れも無い現実が、私の体に、そして心にも重くのしかかってきました。

 

(2)松本先生との出会い

 

その2000年の年末は散々でした。頚椎や血尿の件で、心は鬱状態に陥っていたし体調も最悪で、年末の大掃除やお正月の準備はひとつ片付けると横になり、またひとつしては休むという文字通り寝たり起きたりの生活を余儀なくされたのです。

 年が明けて2001年、21世紀の幕開けに新聞・テレビは沸き立っている中、私は重苦しい心身を引きずったまま、あの全身のけだるさに寝正月を過ごしました。しかし体を横にしていても心の休まるときはひと時としてなく、常にこのままではいけない、何とかしなくては、どうしたらいいのだろうと思い巡らし、悶々としていました。

 2001年1月5日、運命の日が来ました。その日の10時過ぎだったでしょうか、主人に相談するとすぐにインターネットで調べてくれました。主人の「ここはどうや。」と開いてくれたパソコンのディスプレイには「松本医院」と大きく出ていたのです。私が「どこにあるん?」と聞くと「高槻らしいで。」

「松本医院」「高槻」ふたつのキーワードにピッと閃くものがありました。どこかで聞いたことがあると思いました。長女と次女の同級生がおられるすぐご近所のHさんのことが思い浮かぶのに、数秒とかかりませんでした。Hさんとは町内の子供会活動で親しくさせて頂くようになり、次女と同級生の娘さんがアトピーの治療で「高槻の松本医院」に通っておられることを聞いていたのです。大変な時期があったが今はとてもよくなっていると、喜んでおられました。そんな話の中でHさんが「リウマチの人も来られているよ。何ヶ月か前に見たときは歩くのも靴を履くのも大変そうだったのに、この前はさっさと歩いてらしたよ。」と言われました。自分がリウマチであることを決して人に知られたくなかった私は「ふーん。」としか返事をしませんでした。しかし耳をダンボ(ディズニーの子象)のようにして聞いたその話は、頭と心に深くきっちりと刻み込んでいたのでした。私はすぐに受話器を取り、その日・1月5日が初診察日で、予約の必要もないとのこと、午後の診察の時間は三時半であることなどを伺いました。

 私は、食い入るように「松本医院」のホームページを見ました。リウマチ関連の所にだいたい目を通すと、主人に今日(その日のうちに)松本医院へ車で送ってほしいと頼みました。この時のホームページにはまだ、あの凄い理論は掲載されていなかったし、リウマチの手記も今ほど多くはありませんでした。この時点で私が、『理論は西洋医学で武装し、臨床は3000年の臨床経験医学である漢方を利用した、松本先生独自の漢方医学である』ことを、決して理解していたわけではありません。理屈ではなく勘というか直感が、松本先生が信頼するに値する人だということを教えてくれたのです。手記に書き込まれた松本先生のコメントは私を納得させるのに充分であったし、手記の最後にあった検査値のグラフが、手記と松本先生がニセモノ・ウソでないことを証明していました。普通の病院に十数年通って何度血液検査をしたことでしょう。検査数値なんて悪くなるのがほとんどで、約九割、たまに横ばいだったり少し良くなることがありましたが次には必ず上昇していました。それなのに手記を書かれたどの方の検査数値も、途中からどんどん良くなり、最後には正常値になっているのです。一方漢方の医師の所にも通ったことがありますが、そこで血液検査をしたことは一度もありません。病状が良くなっているという感覚は体でも心でも感じられなかったし、検査数値というようなはっきり目に見える形での病状の変化も当然の事ながら無いので、不安が付きまとっていました。松本先生に、今までのどの医師とも違う何かを感じた私は、その日の夕方、松本医院の前に立っていました。それにしても、主人がインターネットから最初に出してくれたホームページが「松本医院」であったことに、今改めてぞくぞくする程に運命的なものを感じています。幸運・幸せへの扉が開かれたのです。

 初めて訪ねた松本医院であり、一度も会ったことのない松本先生でいらっしゃるのに、全くといっていい程に、意外に思ったり不安を感じるようなことはありませんでした。多くの人で溢れる待合室でも手記を読ませて頂いていると、近い将来自分も元気になれるとの思いが、膨らんでいきました。自分が手記を書いている姿を想像したりして、思わずにんまりしてしまったものです。話は逸れますが、ここで絶対に治る・絶対に手記が書けるようになるんだと思っていたのに、実際にそうなってみると書かせて頂くのが半年以上も遅くなってしまい、本当に申し訳ございません。こんなに元気にして頂き、嬉しくて嬉しくてどんなに感謝してもし足りないと思っているのに、どうしてなかなか手記が書き始められないのか、自分でも不思議でした。でもここまで書かせて頂いてホッとした時、そのわけに思い当たるものがありました。発病以来松本先生にお出会いするまでの、私にとって大変厳しい十数年を書き記すのが辛くて、逃げていたのではないかと思います。松本先生に不快な思いをさせてしまい、本当に済みませんでした。

 不安はなかったものの、私は大変緊張して松本先生の前に座りました。先生は、やはり「治してあげるよ。」と威勢良く言って下さいました。そして、やはり握手をして下さいました。その手は意外に小さくて、白く細長い指でした。赤く腫れ上がっていた私の手の方が、先生の手よりはみ出しているようで恥ずかしく思ったものです。そしてその手は、とても柔らかく温かいものでした。大きく分厚くて硬くごつごつとした力強い手を想像していた私は、少なからず驚きました。「松本医院」のホームページから私がイメージしていたのと違ったのは、唯一、繊細さを物語るその華奢な手だけでした。

 最後に、やはり大目玉を食らいました。十年もの長い間抗リウマチ剤と鎮痛剤を使ってきたのだから、それ相応のリバウンドは覚悟の上で松本先生を訪ねておりました。しかし長女は高校三年生、次女は中学三年生で、それぞれの受験が目前に迫っており、それが終わるまでは私が倒れるわけにはいきません。それで三ヶ月間だけ鎮痛座薬の使用をお願いすると、先生に一喝されました。そしてあきれたような憐れむような顔をされ「俺の仕事を増やして、その分金儲けさしてくれるんやな。」と言われました。この時の私は、松本先生のこのハイレベルのウィットを、ぼんやりとしか理解出来ませんでした。西洋医学の薬を止めない・使い続けるということは、完治とは全く逆方向であり、その分余計に完治までに時間がかかる、そしてその西洋医学の薬の弊害を取り除くことが、松本先生の仕事のほとんどだからである、ということがハッキリわかったのは、アトピーの手記に書き込まれた松本先生のコメントを読んでからでした。

 診察の後、看護婦さんに血液検査をして頂き、織田先生に初体験である鍼灸治療をして頂きました。痛くて動かし辛かった首が、なんだか軽くなったような気がしました。そして家でのお灸のやり方を教わり、漢方薬を頂いて帰ったのです。

 

 (3)松本先生は、私の救世主

 「救世主」を広辞苑で引くと

  @ キリスト教で、イエス=キリストの称

    A 人類を救済する者。メシア

   B 苦しい場面から脱出できるよう尽くしてくれた人。 

  とあります。無論Bの意味(私を救ってくれた人)で使わせてもらったのですが、松本先生はAであると言ってもいいと思っています。事実、私を含めて数え切れないほどの人達が松本先生のお陰で元気になったし、これからもそうであるからです。

次の日私は、早速大きなスーパーに行って土瓶と線香を買い求め、漢方煎剤を飲み、お灸をしました。初めて口にする漢方煎剤(今までに飲んだことのある漢方薬は、全て顆粒状のものでした。)はとても飲みづらいものでしたが、これを飲めば必ず治るのですから、こんな嬉しいことはありません。大した効果がなく副作用があるのに、それ故決して治らないから飲み続けなければしかたのないという、全く矛盾した西洋医学の薬から開放され、えも言われぬ喜びが、口には苦い漢方煎剤を、心では甘露の如くに感じさせました。

夜はお灸です。これも私自身は初体験でしたが、幼い頃祖母が母に、背中に大きなお灸をしてもらい、「あちーっ!」と小さな体をさらに縮めながらも何だか嬉しそうだったのを、懐かしく思い出しました。腫れ上がった両手首・両足首は自分で据え、がちがちに凝って硬くなった肩と背中、痛くて動かしづらい首の後ろは、自分で出来ないので子供達に頼みました。子供達は、初めて見るお灸を大層珍しがり、はしゃぎながら交代でしてくれました。それぞれ自分の手や足に据えてみては「ウー、ギャー」などと叫んでおります。本当に久しぶりに親子で大笑いをし、楽しいひとときとなりました。

毎日お灸をするのは、正直なところ時間と手間がかかって大変でした。でもお灸をした後は、驚くほど体が軽くなるのです。たいして歩かない(歩けない)のに、重くて引きずるようにしていた足取りが、スッスッと進むのです。昔囚人の足に付けられていた大きな錘を、取り外してもらったかのように軽くなり、まさに囚われの身から開放される気がしました。肩・背中も同様で、大きな荷物をおろしたように感じられました。腫れ上がったり凝ったりして痛む所では熱さはほとんど感じなかった為、お灸後のあの爽快感がたまらなく嬉しいものでした。

長女と次女は受験生だったので受験が終わるまでという約束で、次の夜からのお灸は、小学5年生だった息子に、私が出来ないところをしてもらうことになりました。お灸を据える前には、その箇所に赤い塗り薬を塗ってもらいます。息子は面倒なので、赤い塗り薬を容器から指でぐいっと取り出し、手のひらを一杯に広げて私の肩や背中に手荒くなすりつけていきます。あかぎれが酷く、ガサガサ・ゴワゴワしていた息子の手でされると、背中でも少し痛かったのですが、ある時ふと、痛くなくなっていることに気がつきました。息子の手を見てみると、なんと、あのあかぎれは跡形もなって、柔らかでなめらかなものになっているのです。大喜びしてその手を撫でまわす私に、息子は苦笑いをしていました。お灸の効果は、思わぬ所にもあったのです。

織田先生は、私のたくさんのお灸の跡をご覧になり、そのお灸を小学5年生の男の子がしていることがわかると、ものすごく褒めて下さいました。お灸をすると体が軽くなって気分がよくなるという実感があり、やればやっただけその効果があることを、私のこの体が知っています。だからしているだけですのに、治療の度に織田先生は褒めて下さり、他の患者さんにも宣伝して下さいました。私は益々嬉しくなって、お灸にハマッておりました。

一方松本先生より、アトピーの手記もよく読んでおくようにとの宿題がありましたので、「松本医院」のホームページを開き、引き込まれるように読んでいきました。体のだるさや、首や手足の痛み・肩のこりも忘れ、どのくらいの時間読んだでしょうか。幾度となく涙が溢れ、時には患者さんの本音やそれに対する松本先生のユニークでウィットに富んだコメントに、クスッとなりました。その中で西洋医学の病院に勤めておられた看護婦さんの手記は、感動・感銘というより私には大きなショックでした。西洋医学の渦中にありながら漢方医学の松本先生を信じ、想像を絶する過酷なリバウンドを乗り越えておられたのです。ステロイドをはじめとする薬の恐ろしさを思い知らされると共に、受験が済むまで座薬を使わせて下さいなんて甘ったれているわが身を振り返ると、恥ずかしくてたまりませんでした。そして、松本先生を『チョビヒゲ大隊長』と称された方の手記に背中をポンと押されて、座薬の使用をやめる決心をしました。初診から十日足らずが経っていました。診察の折に、座薬をやめていることを松本先生にお話し「先生にお金儲けをして頂けなくなりました。すみません。」と申し上げると、先生はニッと笑われました。

西洋医学の全ての薬を止め松本漢方医学オンリーになって、私は清々しい思いでした。忌々しい抗リウマチ剤や鎮痛剤のほかに、胃薬や風邪薬をしょっちゅう飲んでおり、まさに薬漬け(毒づけ?)だったのですから。覚悟していたリバウンドも、幸いなことに思ったより軽いものでした。漢方煎剤とお灸の効果は絶大で、新たに増えた痛みは右膝だけでした。腫れ上がって曲がらなくなりましたが、耐え難いほどの痛みではなく夜も眠ることが出来ました。ただ洋式トイレしか使えなくなったことで、いろいろと不都合や不便さを味わいました。尾篭な話になり申し訳ありませんが、漢方煎剤を飲み始めてより、トイレに行く回数がものすごく増えたのです。便通の悪い方ではなかったせいか、下痢に近い感じになったことがありました。また早く治りたい一心で、漢方煎剤を出来るだけたくさん飲もうと思いかなり大量に飲んでいたので、尿の回数も自分でもびっくりするほどでした。その上1月・2月という寒い時期です。衣服も、分厚いものを何枚も重ね着しているので脱いだりはいたりが大変でした。家では、漢方煎剤を飲んではトイレへ、を繰り返していましたが、外出先では困りました。和式トイレしかない所が意外に多く、もう真っ青になって身障者用のトイレがないか尋ねそこを探し回ったことがあります。一刻の猶予もなく気はあせるのに足が痛くて身動きがままならず、やっと見つけた身障者用トイレでしたが、その前で私は少し戸惑っていました。使うのが初めてだったこともありますが、それよりも自分が身障者用のトイレを使わなくてはならないという事実に、胸中穏やかならぬものがあったのです。でもこうしたことは、身体障害者や高齢者の方々のことが実感としてよくわかり、よい経験をさせてもらったと思っています。それからは外出先では、先にトイレを確認することにしました。松本医院も和式トイレがひとつだけなので、高槻駅の身障者用トイレを使っていました。

リバウンドが思っていたより軽いものだったとはいえ、時には「松本先生、助けてー!」と叫びたくなるような右膝の痛みが二・三日続いたことがありました。でも不思議なことに、週一回の診察日が近づくときまって治まってきます。あんなに痛かったのに診察日には笑顔、というのが何回もあったのです。「松本パワーは凄い!」と思ったものです。私が感じた「松本パワー」の源は、先生の『絶対治る』との言葉に対する信頼であり、それは確信に近いものになっていきました。「不治の病」と宣告され、絶望という奈落の底への下り坂をゆっくり転がり落ちていた私に、今、眩く光り輝く「完治」への上り坂がはっきりと見えます。たとえどんなにリバウンドが起きようとも、それは「完治」につながっている出口のあるトンネルに過ぎないのです。こうした精神的なものが、痛みの感じ方を随分和らげてくれたのではないかと思います。

それどころか、痛みと同等以上に辛かったあの全身のだるさが、ほとんど無くなったのです。プラス(倦怠感の解消)マイナス(右膝痛)を計算すると、断然プラスです。一日のうちで横になる回数も時間も減っていき、家事の量は変わらずむしろ自然に増えていったのですが、以前よりも家事が楽になったように感じました。ある夜、家事を終えてホッと一息ついた時に、口をついて出たのは「ああ、くたびれた(疲れたの意)」でした。調子がいいのでよく動いて(働いて)いたのでしょう。これまでは「しんどい・だるい」でした。よく似ていますが、私にとってはまったく違うのです。「くたびれた」と言えるようになった(体をよく動かせるようになった)自分が嬉しくて、涙ぐみました。

 もうひとつの変化は、生理でした。周期が大変早くなったのです。30日ぐらいで遅れる方だったのに20日前後になり、最も早いときは半月でした。周期が早くなっただけで痛みやめまいなどの症状はなく、量も普通か多いくらいでした。松本先生に伺うと、やはり漢方煎剤の効果で、血流がよくなり新陳代謝が活発になったからでした。「若くなったんとちゃうで。」と言われ、またニッとあの笑顔を見せて下さいました。

更には、思いがけない嬉しい変化がありました。数年ごとの運転免許証の更新時には視力検査が行われますが、その免許証更新の通知が、誕生日の一ヶ月前・5月の連休の頃に届きました。普段使っているメガネとは別の、ワンランク度のきつい視力検査用のメガネをつくっておき、それで受けていたのですが、それでもよく見えないことがありました。そのため免許証の更新の通知がに、いつもならイヤだなあと思うのですが、今回はそうでもありません。バイクや車に乗っている時の標識や、駅にある看板などの文字、テレビの画面なども、以前よりこの所何だかよく見えるようになっている気がしていたからです。やはりよく見えました。それまでは見えにくくて間違ったりするので、いくつも答えなければならなかったのに、あっという間に終わってしまいました。結婚以来20年以上使ってきたメガネは、一部欠けていて相当くたびれていたので、この機会に買い替えようと思い、眼鏡屋さんに行きました。そこでよく検査をしてもらうと、ワンランク度の低いメガネでいいと言われたのです。度を低くしてメガネを買い替えたのは、初めてでした。眼鏡屋さんも「珍しいですね。良かったですね。」と言ってくれました。今年の私の誕生日プレゼントは、ビッグなものになりました。漢方煎剤とお灸、それに毎日お風呂での首や肩の体操の成果で、首の痛みや肩の凝りが随分解消された為なのでしょうか。首の痛みや肩の凝りが軽減されただけでも嬉しいのに、視力まで良くなるなんて、喜びより驚きでした。

松本先生にお話しすると、先生はやはりニッとされ、力強く握手をして下さいました。そして眼科医の診察を勧められ、眼科医が松本医院に来られる日の書かれたメモを下さいました。6月初めの日曜日に(松本医院は、土・日にも診察して下さいます。それこそたくさんの医院・病院に行きましたが、松本医院の他に、土曜日はあっても土・日の両方診察されている所を、私は知りません。)伺い、視力検査と眼科の先生の診察を受けました。この時もやはりよく見えたし、眼科の先生は「白内障もないし、大丈夫ですよ。」と言って下さいました。この時の私は、視力のことで有頂天になり、白内障のことはあまり気に留めていませんでしたが、松本医院になぜ眼科医が定期的に来られているのか、そしてなぜ白内障のことを言われたのかが分かったのは、私にアトピーが出現した後の事でした。そして、今「松本医院」のホームページのスタッフをされているFさん(F兄弟の弟さん)の手記を読ませて頂いた時には、現代西洋医学によるアレルギー治療の、あまりの「残虐さ・残忍さ」に暗澹たる思いになりました。

尿検査に、異常がなくなった(血尿が出なくなった)のは言うまでもありません。看護婦さんが「きれいなものよ。」と言って、にっこりして下さったのを忘れません。

ここで「松本パワー」の成せる技の数々、「松本ミラクル」をお披露目したいと思います。

@ 二ヶ月が過ぎようとする2001年3月初め、肘と同じくらいの太さになっていた両手首の腫れが、スーッとひいてきた。手の甲の筋や骨が見えてきた。

A それまで止まらなかったブラウスの袖口のボタンが、はまるようになった。衣服の着脱が、楽になった。

B キッチンの布巾や台ふきが、ギュッと絞れるようになっていた。ぶら下げていた布巾や台ふきからいつもポタポタ垂れていた滴が、落ちてこなくなったので、気がついた。

C 食事を用意する時、家族に「これ、切って」「あれ、持っていって」などと頼まなくなった。(人に頼まなくてもいい、自分で出来ることの何と嬉しいことか。)鍋物用の大なべをテーブルに運べた。半年過ぎた2001年夏には、なんとカボチャやスイカ、トウモロコシが切れた。

D 洗濯物を、パンパンと振ってしわを伸ばしてから干すようになっていた。手首を振り回すなんて、これまでなら考えられない行動だ。

E 二ヶ月足らずでリバウンドの右膝痛がよくなると、階段の手すりを持たなくても昇り降りが出来るようになった。もうしばらくすると、階段の一段一段、片足を交互に出して降りることが出来るようになった。それまでは一段降りるのに、両足をそろえなければならなかった。

F 膝から下、踵まで寸胴でゾウの足のようだった両足首の腫れが、少しずつひいできた。くるぶしが現れ、ふくらはぎがわかるようになった。

G 卒業式・入学式やお葬式などで、パンプスを履いたままでいることが出来た。それまでは痛いので、イスにすわっている時は脱いでいた。今では、ワンサイズ小さい靴が、履けるようになった。

H 診察日、時間がないと思ったら駆け出していた。松本先生に報告すると「そのうちスキップもジャンプも出来るで。」と言われ、ニッ

I 立ったり座ったりが随分楽になり、正座も出来るようになった。

J 首の痛みがとれ、上を向いたり横を向いたり、後ろを振り返ったりがスッと出来るようになった。バックが見やすくなり、車やバイクの運転が楽になった。またコップに入れた飲み物が、とても飲みやすくなった。

K 風邪を、あまりひかなくなった。しょっちゅう風邪をひいて鼻の奥や喉が痛くなり、風邪薬が手放せなかったのに調子がいい。ひいても松本先生の風邪薬(漢方煎剤)を飲むと、すぐに良くなる。

L 時々あった顎やこめかみの痛みがなくなり、食事がしやすくなった。

☆M 倦怠感がなくなり、よく食べ、よく喋り、よく笑うようになった。体重は一時減ったが、少しずつ増えて、発病前に回復しさらに増加中。診察日、体調は良いし松本先生にお会いできるのは嬉しいので、満面に笑顔を浮かべ(たぶん)大きな声で(そうなっていた)挨拶させて頂くと、先生が「あんたの妹さんが来たかと思うたで。ここに来た時より10は若く見えるで。」と、最大級のほめ言葉を下さった。そしてニッ

まだまだありそうですが、これくらいにしておきます。

こうした様々な症状や機能の改善と並行するように、血液検査の数値もどんどん好転していきました。初診時(2001年1月5日)は、以下のとおりでした。

血沈  97   (正常値は12以下)  

CRP 4.2 (正常値は0.6以下)

ZTT 14.2(正常値は12以下)

RF  390 (正常値は15未満)

一ヵ月後(2001年2月7日)には、

血沈が 65  

CRP 1,8  

RF  376  

に減っていました。リバウンドで右膝通に悩まされていたにもかかわらず、上昇したのは

ZTT 15,7

だけでした。その後も数値が増えたのはごくわずかで、順調に下降線をたどっていき、毎月の血液検査がとても楽しみでした。

5月の連休には、車で約2時間かかる実家に行くことが出来ました。体がきつくてここ1・2年はほとんど帰ったことがなかったので、久しぶりに会う母を見て年をとったなと思いました。私が心配ばかりかけているからです。私はすぐに、スマートになった手足を母に見てもらい、松本先生のことや血液検査のことなどを得意になって話しました。母が、私の手をさすりながら何度も繰り返す「よかったな、よかったな。」は、何時しか涙声になっていました。その数日後、母から電話があり、「この前、元気になったあんたを見てから、よう寝れるようになったわ。眠り薬もいらんようになってもたわ。その偉い先生に、うちもえらい喜んで感謝してる、手、合わしてますて、あんじょう言うといてや。」と言います。松本先生に母からのこの言伝を伝えますと、先生は「おう、俺はイエス・キリストか」と言われて、いつものようにニッと微笑まれました。

 

 (4)卵事件

 6月の血液検査の結果は正常値か正常値に近いものとなり、わずか半年でこんなに良くなるなんてと、夢のようでした。あまりに嬉しかったのでささやかなお祝いをしようと思い、松本医院のすぐ側のデパートに寄ってみました。デパートで自分のための買い物をするなんて、この日より前はいつだったのか、思い出せません。ちょうどバーゲンをしていて大好きなピンクの洋服を買い求め、電車に乗りました。抱えていたデパートの紙袋を濡らすポタポタという音にハッとし、あわてて窓の方に目をやると景色がぼやけてよく見えません。ぬぐってもぬぐっても涙が頬をつたい、窓からの景色がはっきり見えることなく、電車を降りました。

ところが、その一ヵ月後の7月10日、大事件が起きました。早朝、右足に異変を感じて目が覚めました。トイレに行こうと起き上がり、立とうとすると突然激痛が襲ってきたのです。12年前の発病時(妊娠3ヶ月)の悪夢の再来でした。右足は浮かしたまま、両手と左足を使って這って動かざるをえません。二階に寝ていましたので、階段はおしりを滑らせておりましたが、それが限界でした。身動きできないまま、激痛に耐えるしかありません。お昼過ぎになってようやく痛みが和らぎ、片足(左足)で移動出来るようになりました。時間の都合をつけて主人が、夕方、車で松本先生の所に送ってくれました。待合室で、どうしてこんな事になったのか考えてみると、あれしか思い当たりません。卵10個です。よくスーパーに行ってくれる主人が、安売りをしていたからと、10個入りの卵のパックをふたつも買ってきていました。ひとパックは食べてしまったのですが、もうひとパックは賞味期限が過ぎてしまいました。熱を通せば大丈夫だろうと、10個全部をゆで卵にしてしまいました。賞味期限切れを知っている主人と子供達は、手をつけようとしません。しかたがないので私一人で、8日の夜3個、9日の朝3個、昼2個、夜も2個と、10個とも食べてしまったのです。気持ち悪くて吐きそうになりながらも捨てられず、もったいないの一心がとんだことになってしまいました。馬鹿なことをしたものです。

恥ずかしかったのですが、先生に尋ねますと「考えられることだ。」そして「それを確かめる為に、もう一度やってみたら?」と言われました。私の救世主であり大恩ある松本先生のお役に立てるのなら、どんなこともやらねばと頭ではわかっているのですが、あの激痛を再度味わうのは勘弁してほしいと、体と心が訴えます。勇気がなくて検証出来ず、申し訳ありませんでした。すみません。

ちなみに、卵10個の中に含まれていた農薬等の化学物質は、14にまで下がっていた血沈を34に、0,1だったCRPを3,7に跳ね上げました。身の危険を察知した免疫システムの細胞たちが、必死になって戦ってくれた証だと思うと、何とも健気で有り難くいとおしくさえ感じます。でもあの激痛は、もうこりごりです。

でもそのとき、ふと一つの疑問が浮かびました。あのモーレツな痛みがあったから、私は何か体に異変が起きていると気づいたのです。癌や肝臓病のように、体の内部で静かに侵攻し自覚できる病状として現れた時にはもう手遅れという場合もあります。リウマチの痛みにしろアトピーの湿疹にしろ、体に異変が起こっているという証なのですから、むしろ有り難いことです。(今だからそう思えるのであって、症状のある時には絶対に思えませんでしたが。)その異変とは、化学物質などの異物・毒物の体内への侵入であり、湿疹や痛みは、それらを一生懸命吐き出していることを教えてくれています。息子が赤ん坊の頃、重症のアトピーで嘆く私に、母は「悪いもんは、どんどん出した方がええんや。体に溜まって癌にでもなったら、えらいこっちゃ。目に見えへん病気より、見える方がええねん。」とよく言って、慰めてくれたものです。もっともその当時の私には慰めになってはいなかったのですが、今となると、学歴のないましてや医学的な知識などあるはずのない母の方が、大学までいかせてもらった私より、よほどエライと感心します。となれば、体に侵入してきた異物・毒物を必死に吐き出してくれている有り難い・正しい免疫の働きを抑制したり止めたりすることによって、体に異変が起こったんだよと教えてくれる信号であり体から悪いものを吐き出した印(跡)にすぎない、見かけの症状を隠してしまう、それでいいのかな、いいはずはないと思ったのです。私も息子も実際そうした治療(これは治療と言えないのではないかと思います。)を受け続け、今なお松本医院以外の全ての病院で行われています。松本先生が、憤りを込めて繰り返し繰り返し力説されている所以だと思いました。

また「目に見えない病気より、見える方がいい。」という母の説にも、しごく納得します。現れている(見える)湿疹や腫れより、感じる(見えない)痒み・痛み・だるさ・苦しさ等の方が人にはわかりにくいものです。同じことが、心の傷と体の傷でもいえると思います。体の外に出来た傷ならば見えるので、すぐに気がついて自分もまわりも何とかしょうとしますが、心の傷(精神的苦痛)は外からは見えませんから、やはり人からはよくわかりません。どんなに苦しんでいるか・どんなに苦しめられているかが、わかってもらえず一人で抱え込み、どうしていいかもわからなくてさらに苦しむ、という経験をされた方も多いのではないでしょうか。そして見える見えないの区別なく、病気の症状そのものから受ける身体的苦痛と、その病状から発生する精神的苦痛を、もし数値で表わしたなら、イコールではないと思います。精神的苦痛は、身体的苦痛の2倍にも3倍にも感じられました。例えば、1の痒み・痛みがあり、その時の精神的苦痛を1だとします。痒み・痛み(身体的苦痛)が3になった場合、それによる精神的苦痛は、同じ3でしょうか。私には、2倍の6以上、3倍の9に近いものに思えました。不安・迷い・焦り・憤りや、人の目が気になる・人からの中傷・人間不信・自己嫌悪・自己否定など、挙げればきりがない程に、精神的苦痛は際限なく広がり深まっていくものだからです。

見える苦痛・見えない苦痛も、身体的苦痛・精神的苦痛も色々と味わってきました。勿論、知らないうちに・気づかぬうちに、私が人に苦痛を与えてしまったことも、数限りなくあると思います。人の痛みのわかる人間になろうなどとは、つゆ程も思いませんが(不可能だと思うからです。)、人が(相手が)どんな気持ちでいるのかを、いつも自分の方から推し測り、寄り添っていくように、耐えず努力し続ける人間でありたいと思っています。難しいですが。

 

(5)アトピーの出現

 

2001年夏になりました。あの卵事件は1日だけで終息し(血沈だけは、正常値に戻るのに4ヶ月余りを要しました。)とても体調のいい状態が続いていました。織田先生が、治療中私のお灸の後を見ながら「よくなってきたら、こんな熱いお灸をようやってたなと思うよ。」といわれた事がありました。本当にそうでした。熱さはあまり感じず据えた後の心身の爽快感が嬉しかったのに、この頃それが逆転してきたのです。お灸を据えることの気持ちよさよりも、熱さやお灸跡の痒みによる不快感の方が、上まわるようになってきました。それは織田先生の言われるとおり、リウマチが着実に快方に向かっているということなのです。

そしてついに、アトピーが現れました。松本先生の理論・治療法の正しさ・確かさを、他の多くの患者さんと同じように私の身体も証明しました。松本先生も織田先生も看護婦さんも、異口同音に「よかったね。」と言って下さいます。いよいよリウマチ完治への最終章、最後のハードルだからです。しかし、私の心中は複雑でした。リウマチ完治への最終段階に入ったことは、勿論嬉しいことですが、アトピーは、重症のアトピーだった息子の幼い頃のつらい日々を、私の心の奥から引きずり出すのです。でも、そんな私の気持ちなどに何の容赦もなく、アトピーは勢いよく私の両手足に拡がっていきました。松本先生から、漢方煎剤を入れたお風呂に入ることと、ホームページのアトピーの所をよく読む様指示されました。そして「何かあったら、ここに電話しなさい。自宅の電話番号や。」と言われ、メモを手渡して下さいました。そこには一度もかける必要が無かったし、これからもないと思いますが、そのメモは、今もそしてこれからも、私の大切な大切な宝物です。

2001年の春、息子の喘息を松本先生に診て頂くようになったのを機に、「松本医院」のホームページを全てプリントアウトしました。穴を開けてファイルに閉じていくと、分厚いファイルが3冊出来ました。とにかく膨大な量で、紙もインクもファイルも足りなくなり、何度も買いに走ったものです。穴を開けてファイルに閉じる作業も大変で、子供達に手伝ってもらいやっと出来上がりました。読むためにした作業ですのにその作業に疲れてしまい、申し訳ないことに出来上がってからはアトピーの出現まで、開くことは一度もありませんでした。そのファイルを取り出し、「革命的アトピー(アレルギー)の根本治療法」を読ませて頂いたときのショックを、何と表現したらいいのでしょう。晴天の霹靂でしょうか。まさに『革命的』であり『コペルニクス的転回』の連続に、何度「エーッ!」と驚きの声を発したでしょう。とくに箇条書きされた「私の治療法や考え方が革命的である理由」には言葉を失いました。その中でも、

2、痒いときに掻いてはいけないのが現在のアレルギー学会の考え方ですが、掻きたければ掻けば良いとい   う事を証明したこと。

3、食事制限は一切する必要は無いことを証明したこと。

には、打ちのめされてしまいました。手記や松本先生のコメントから、何となくそうかなとは思っていましたが、はっきり目の前に突きつけられて息が詰まり、身動きできない程でした。

 妊娠3ヶ月でリウマチを発病し、生まれた息子は、一月もしないうちに重症のアトピーになりました。御多分に漏れずあちこちの病院を訪ね歩きましたが、一向に良くならず、それどころか益々酷くなり顔一面火傷を負ったように真っ赤にただれてしまいました。掻きむしっては泣き、一日中少しも眠りません。ずーっと抱っこしていなくてはなりませんでした。掻くと余計に赤くただれて血や汁が出るし、やっと張り付いたかさぶたも剥がれ落ち、そこからまた血が出ます。いつも両手をガーゼで作った手袋で覆い、腕を押さえつけるようにして抱きかかえていました。しかし自分で歩くようになれば、そんなことは出来ません。息子が掻きむしっていないかいつも監視していて、叱りつけてばかりいました。息子は、たえず私の顔色を伺いおどおどとしています。こんな私でも、たまには笑ったのでしょうか、それを覚えていたのか息子が、例によって激しく怒る私に「お母さん、笑って!」とたどたどしく言ったことがありました。2歳だったでしょうか、ある時、息子が狂ったように掻きむしっています。あわてて息子の所にとんで行き、手を押さえて掻かないようにし叱りつけました。でもこの時息子は物凄い力で私の手を振り払い、いっそう激しく掻きむしったのです。掻きむしった所から出た血を見た瞬間、私は息子に手を挙げていました。息子の大きな泣き声にハッとして、我に返りました。掻けばアトピーが悪くなると思い込み、息子にどれ程酷い仕打ちをしてきたことでしょう。今わが身にアトピーが出現し、あまりの痒さに我を忘れて掻きむしった時、あの頃の息子の苦しみ・叫びが・・・・・・・・・・肺腑を抉る自責の念が絞り出す涙は、血色のように思いました。

 また、息子が4ヶ月になろうとしている頃から、民間療法を始めました。母乳だけで育てるという趣旨のところで、乳房のマッサージをしてもらいました。そして、ここでは自然食品など食べ物に大変こだわりがあり、アトピー改善のため厳しい食事制限をしていたのです。真っ赤な息子の顔を見て、「全部抜いたところから、始めよう。」と言われました。蛋白質を多く含む食品はもちろん、この子はお米にもアレルギーがあるからと、粟・稗・キビの雑穀と野菜だけ(果物もダメ)、味付けも塩のみという食事となりました。毎日、何を食べたのかノートにつけ、そこの先生に見てもらうのです。粟・稗に菜っ葉を食べるわが姿に、幼い頃兄が飼っていた小鳥や鳩を思い浮かべました。こんな食事をしていても、息子のアトピーは少しもよくなりません。この厳しい食事制限をしながらの生活は、大変なストレスとなり、拒食症・過食症に似た状態に陥りました。私は、そこの先生から食べてもいいと言われたものしか食べることができません。主人や長女・次女の普通の食事も作りそれを食べているそばで、私は私の食事をします。でも、OKの出ていない食品を食べようとは決して思いませんでした。というより、ただでさえ酷い息子のアトピーが、私のせいでさらに悪くなるかもしれないと思うと恐ろしくて、とても食べるなんて出来ません。体重がどんどん落ちやつれてきて、主人や母、周りの人が心配して色々言ってくれても、全く受け付けなくなっていました。その反動で、OKの出ているものは、吐きそうになるまで食べるのです。あの雑穀のご飯でさえ山盛り食べ、甘味のあるサツマイモやカボチャは、鍋一杯をたいらげていました。またお菓子などの嗜好品に飢えていたので、そこで売られていた雑穀で作られたお煎餅を大量に買い込み、それがなくなるまで食べるのを止められないのでした。一体私は、何をしていたのでしょう。しかしながら、ここの先生にはものすごく感謝しています。ステロイドの恐ろしさを教えてくれたからです。あの食事にしても、ほとんどの野菜に甘味があることを初めて知り、野菜が本来持っている自然のほのかな甘味がとてもいとおしく感じられました。なかなかそういう経験は出来ないものだし(もう一度したいとは思いませんが)、実際拒食・過食をしなければ、あれはあれで健康食ではなかったかと思っています。それにそこに行けば、息子よりはましだけれどきついアトピーの子のお母さん達がいて、色々話が出来たのは精神的に大変メリットでした。

 ただ、私が人間として余りにも未熟だったあの頃、息子に犯してしまった罪(一時期とはいえ息子の誕生・存在を肯定できなかったこと・息子の心をひどく傷つけたこと)は、決して許されるものではないし、私が、私の生涯を通して許してはいけないのだと思っています。私が、自ら心の奥深くにまで打ちつけておかねばならぬ楔です。この十字架を、私は死ぬまで、背負っていかなければならないのではなく、背負って生きたいと思っています。

私のアトピーは両手足にでてきましたが、それ以上は拡がりませんでした。お風呂に入れる漢方薬を頂き、看護婦さんから指導して頂いたとおり、その漢方煎剤をお風呂に入れ毎日1時間以上入るようにしました。漢方風呂はとても気持ちのいいもので、漢方風呂に浸かってしばらくは、思いっきり掻きまくりました。(10年前に知っていれば・・・・・)そうすると落ちついて来るのですが、1時間は結構長いものです。ボーっとしているのももったいないし、リウマチに水泳がいいと聞いたことがあったので、リハビリをすることにしました。漢方風呂の中で、首、肩、肘、手首、腰、膝、足首を、曲げたり伸ばしたり回したりしていますと、面白い程よく動くようになりました。嬉しくて、織田先生に治療してもらう度に「こんなのが出来るようになりました、これも出来るんです。」などと、やってみたものです。織田先生は「すごい、すごい!」と褒めて下さった後で、「張り切りすぎて、怪我をしないでね。心配だわ。」と言われました。それくらい漢方風呂は、アトピーにもリウマチにも効果抜群なのです。

 ところが、ちょっとしたハプニングが起きました。目やにが出てきたのです。朝起きた時目が開けにくいくらいになり、松本先生に、医院への電話でお伺いすると、「結膜炎だから、すぐに目薬を取りに来なさい。」と言って頂きました。

私は改めて、松本先生は信頼できる素晴らしい先生だと思いました。アレルギーのことは、全て・何もかも、先生にお任せです。勿論結膜炎は、目薬をさして1週間もすると、すっかりよくなりました。

思い返せば、私は赤ん坊の頃から松本先生にお会いするまでずーっと、立派なアレルギー人間でした。

 

私のアレルギー年表

 

年齢

アレルギー

治療等

0歳〜1歳

アトピー(昔、田舎ではたいどくといわれた)

薬はなかった。(母の苦労話をよく聞かされた。)

中学生の時

漆にかぶれた

医者に行く。

薬をもらったかどうかは忘れた

大学生〜

26歳くらい

ニキビ(顔)

 

特別な化粧品を使っていた。

高校生から

45歳

鼻炎

特になし

33歳〜

45歳

リウマチ

西洋医学の病院

抗リウマチ剤・鎮痛剤

43歳の夏

(4ヶ月間)

首・胸に酷いあせも

 

市民病院

塗り薬(ステロイド入り)

顔に出てきた時、少しだけ使った。

飲み薬 抗アレルギー剤

44歳の春

(3ヶ月間)

風邪から喘息に

西洋医学の開業医

抗生物質・抗アレルギー剤

  

 こうして見ると私は、世間を賑わせた言い方を借りれば「アレルギーのデパートどころか、アレルギーの総合商社」です。その中でも松本先生に診て頂く2年前のあせも(アトピー)と、1年前の喘息の時に注目すると、抗リウマチ剤を飲んでいる上に抗アレルギー剤をかなり服用し(医師には大丈夫だと言われました。)、ダブルで免疫機能を抑制していたことになります。アトピーを抑え、喘息も閉じ込め、その為にリウマチを悪化させたのでしょう。松本先生がして下さっていることの、全く逆を体験していたことになります。愚かなる事この上ありません。

 

(6)息子のアレルギー

 

 毎晩私にお灸をしてくれた息子も、小学6年生になる春休み(2001年3月末)から松本先生に診て頂いています。アトピーはほとんど分からないくらいになっていましたが、小学校に入った頃から、風邪をひくと必ずと言っていいほど喘息になり、テオドール(気管支拡張剤・抗アレルギー剤)が欠かせなくなっていました。普段も鼻炎で、よくくしゃみをし、またいつも鼻を詰まらせていて「ゴー、ガォー」とすごい鼾をかいて寝ていました。私は息子に「松本先生のお薬はものすごい苦いけど、それを飲んだら絶対治るよ。何でも食べられるようになるよ。」と言いました。私がどんどん元気になっていくのを、一番よく知っている息子は、自分も松本先生に診て頂き漢方煎剤を飲む事をすぐに承諾しました。そして「給食を食べたい。」と言うのです。幼稚園や学校にお弁当を持っていき、皆が給食を食べる中で息子だけがお弁当でした。給食を一度も食べたことのない息子のこの言葉に、私は胸を抉られるような痛みを覚えました。

 息子とふたりで松本先生を訪ねたあの暖かい春の日、私はすごく嬉しくてウキウキしているのを、何だか不思議で可笑しく思ったものです。これまで病院や医者にいく時に、嬉しいなんてことがあったでしょうか。

 その夜から早速、松本先生に頂いた漢方煎剤を息子に飲ませました。2・3日経った夜、いつものようにお灸をしてくれた後、息子は先にベッドに行きました。用があって2階の息子の部屋の前を通った時、おやっと思いました。静かなのです。ドアを閉めていても廊下を隔てた隣の部屋まで聞こえていたあの「ゴー、ガォー」というものすごい鼾が、聞こえません。息子をのぞいて見ると、「スー、スー」という穏やかな寝息なのです。私はビックリして、大喜びで娘たちを呼びました。娘たちとの歓喜の拍手の中でも、息子は「スー、スー」と眠っていました。「松本ミラクル」を、まざまざと見せつけられました。

 また一ヵ月後ぐらいだったでしょうか、息子は風邪をひき、夜にはしんどいと言ってベッドで苦しそうにしています。「ヒューヒュー」と喘息の音も漏れていました。私は、出来ていた翌朝の分の漢方煎剤を飲ませました。しばらくすると、またもや不思議なことに息子は「スー、スー」と寝息をたてています。朝は、何事もなかったようにケロッとして起きてきました。「松本ミラクル」万歳です。

 これが、息子の喘息発作の最後となりました。あれ以来、風邪をひいても喘息が出ることはありません。また、残念ながら給食を食べることは出来ませんでしたが、随分色々なものが食べられるようになりました。卵やミルクの入っている食品(パンやお菓子)を多めに食べてしまった時も、気分が悪くなり顔に少しブツブツが出る程度で治まるようになりました。以前は、ひどい喘息の発作を起こし、顔はお岩さんのようだし全身を恐ろしいような蕁麻疹が覆っていました。何度か病院に駆け込んだものです。

息子は今年(2002年)の春中学生になり、バトミントン部に入りました。よく食べ、よく遊び、よく運動し、とても元気にさせて頂いています。あと一つ「よく学び」を付け加えてほしい、私はなんとも欲張りな母になりました。

 

(7)私の第3の人生

  

 ついに、その日が来ました。2001年11月27日にして頂いた血液検査の値が、全て正常値になったのです。「やった!あのリウマチが治った!」と大声で叫んで駆け出したい衝動に駆られました。それをやっとの思いで押しとどめ、代わりに電話をかけまくりました。主人には、余程のことでない限りかけない職場にかけました。これは、余程の事だったのです。両親はじめ、いつも心配してくれていた友人・知人、そして松本先生を教えてくれたHさんに、心からの感謝を言わせて頂きました。

 その夜、お祝いをすることにしました。あいにく電話が通じなくて何も知らなかった主人は、キョトンとしています。家族そろって乾杯をし、お寿司をほおばりました。この日が、私の第3の人生の始まりです。言うまでもなく、それは松本先生のお陰であり、松本先生から頂いたものです。

 しばらくの間、私は興奮状態の中でぼーっとなっておりました。いわば、真っ暗闇から急にお日様の眩しい所に出たような感じで、少なからず戸惑いを感じていました。発病以来、痛い痛いと苦しみながらの寝たきり生活になるという恐怖と絶望の中で、少しでもその時が来るのを遅らせたい、それだけを考えてきました。それが突然、もう大丈夫だよ、何でも出来るよと言われ、「どうしよう、何をすればいいのだろう。」と戸惑ってしまったのです。喜びでも悲しみ・怒りでもそれがあまりに大きすぎると、心か脳の防御装置のようなものが働くのか、感覚(感情)が麻痺してしまうのではないかと思います。大切な肉親を亡くした時などあまりの悲しみには、涙さえ出ないで放心状態になると聞きますが、私の喜びの場合も、それに似かよったところがありました。

 とりあえず、アトピーがおさまった後の秋から習い始めていたパソコンを、続けてやってみることにしました。そうだ、この喜びの手記を、ワープロでなくパソコンで書こうと目標を定め、取り組み始めました。パソコンを勉強しようと思ったのには、もう一つわけがあります。松本先生(「松本医院」のホームページ)に引き合わせてくれたインターネットを、使いこなせる様になりたいと思いました。松本先生は言うまでも無くホームページを開いてくれた主人と、インターネットそのものにも、どれ程感謝していいかわからないとの気持ちがあったからです。

 冒頭にも書きましたが、主人と車で8時間近くかけて、軽井沢へハーフムーン旅行(ハネムーンではないしフルムーンにはまだ早いので、ハーフムーンと名付けました。)に行きました。タイミングよく豪華ホテルのチケットを頂いたからですが、本当に素晴らしい記念すべき旅行になりました。また今年(2002年)の2月に主人の姪の結婚式で着物を着たのをきっかけに、4月からは着物の着付けも習い始めています。自分の普段着の脱ぎ着でさえ苦痛のあった私が、着物を着ることができるようになり、今は、来年1月の娘の成人式に振袖をこの私の手で着せてやろうとしています。以前からかかわっていたボランティア活動においても、とても楽しく充実した時間を過ごすことが出来るようになりました。

 でもこんなことは、喜びを木に例えるなら、ほんの枝葉に過ぎません。太い幹は自分の可能性であり、深い根は感謝です。何かをしたいと思っても出来なかったし、やろうという意欲さえ失われていた私が、今は自分がその気になって努力をすればたいていのことが出来るでしょう。そういった自分の可能性、それが松本先生から頂いた私の第3の人生だと言えます。再び開いて頂いた・与えて頂いた私の第3の人生のキャンバスには、まだ何も描かれていないのですが、その色は、爽やかなブルーかピンクがかった淡いパープルです。そしてそのキャンバスの中に、とても元気で活き活きしていている私がいます。明るく豊かな将来が見えるのです。リウマチがじわじわ進行して日常生活にも支障が出てきた時、もしかして私の方が年老いたあの母に看病してもらうのではないか、苦労を幾重にも刻み込んだ皺深いその手に更に苦労を重ねさせるのかと思うと、断腸の思いでした。元気にして頂いた今、いずれ来るであろう、あの母が・父が倒れたとき、精一杯世話が出来る、その幸せをどのように感謝していいのかわかりません。

これからは、ほんの少しでもいい人が喜んでくれること、ボランティア活動をさせて頂き、感謝という太い筆で、私の第3の人生のキャンバスを鮮やかに描いていきたいと、切に思っています。

 

(8)松本先生へのお願い

 失礼ながら、松本先生にお願いしたいことがあります。

  @ ノーベル賞を、もらって下さい。

  科学的・医学的なことはわかりませんが、松本先生が世界で始めて打立てられた理論を世界でただ一人実践されている、それはノーベル賞以上の価値があると、私は確信しています。

 

A 長生きして下さい。

  リウマチを含めたアレルギーを完治出来るのは、世界中で松本先生お一人だと思います。にもかかわらず、アレルギーに悩む人は増え続けています。松本先生を必要としている人がいなくなるまで、絶対に倒れないで下さい。そして松本先生のこの理論を実践できる後継者・弟子(医者)を、たくさん育てて下さい。コペルニクスの地動説が今や誰も疑う余地が無くなったように、松本先生の革命的理論の実践である根本治療(完治できる正しい治療)が当たり前に行われるようになるまで、長生きして下さい。

  松本先生に診て頂くようになってしばらくした冬のある日、先生は風邪をひかれたようでした。右手では持った漢方煎剤が入っているであろう大きな湯のみを始終口に運ばれ、左手はティッシュでひっきりなしに鼻をかんでおられます。私の前にも後にも待合室に溢れる患者さんがいて、先生はいつものように忙しく診察しておられました。私はとても心配になり、「先生、大丈夫ですか?私のリウマチを治して下さるまで、倒れないで下さい。」とお願いしたものです。「俺は風邪なんかひかん。大丈夫、あんたを治した次の日に倒れるわ。」と言って下さった先生の声は少し鼻声で、冗談ではなく私は本気で余計心配になったのを覚えています。本音を言えばあの時、私のリウマチが治るまでに先生が倒れられると私が困るから、つまりは私のために心配していたのですが、今は違います。尊敬し、敬愛する松本先生、熱くて恐いけれど物凄くピュアで、とびきりのユーモア・並外れたウィットの中に茶目っ気や可愛らしさを垣間見せて下さる松本先生、世界でナンバーワンであり、世界でオンリーワンである松本先生ご自身のことを、心から心配しています。

 

B 入院できる松本病院を、つくって下さい。

  残念ながら、今なお麻薬であるステロイドが、大量に使われています。幸運にも松本先生にお出会い出来たものの、ステロイドから離脱しようとされる方のリバウンドには、想像を絶するほどの恐ろしいものもあります。松本先生のご指導の元とはいえ、家庭において、ご本人の意思とご家族の協力だけで乗り越えるには、あまりに厳しいこともあるのではないかと思います。家族の協力を得られない方もあるでしょう。そんな方が、もっとも過酷な時期だけでも入院できる、松本病院があればどんなに心強いかと思うのです。

  私の息子の場合も、私が原因で生活が成り立たなくなり、あの優しい主人が私から息子を引き離すようにして入院させました。西洋医学の病院だったため、入院したからといって完治するわけではありません。感染症で一度、アトピーで二度も入院しました。私や息子と同じようなことをさせざるを得ない人が、今もたくさんおられると思います。失礼を承知で、敢て勇気を出しお願い致します。

  ここからは、私のファンタジーの世界です。

  松本病院は、ヨーロッパの白いお城のような建物で小高い丘の上にあり、緑に囲まれ色とりどりの草花が咲いています。そのお城の松本病院長は、チョビヒゲではなく立派な髭の王様で、ゆったりした院長室のソファに腰掛けられた姿は、相変わらずとてもダンディです。今現在の松本先生も、何時も大変オシャレでカッコイイのですが(ピンクのシャツ、縞模様のシャツに重ねたウエスタン風のベストなど、うちの主人とはかけ離れたステキなファッションが印象に残っています。奥様ではなく松本先生が選ばれるそうで、どれもよくお似合いです。)その上に王者の風格がついています。でもそのお人柄は全くお変わりなく、多くのスタッフ(医者)を従えて精力的に仕事をこなされています。

  入院病棟の病室は、リゾート地にあるワンルームマンションのようです。漢方入浴剤治療をするためのバスが設置されており、トイレは勿論洋式です。全てバリアフリー、手すりも適切についています。入院患者用のベッドのほかに、お世話をされている家族の方のためのベッドも備えてあります。子供病棟は、可愛らしくて保育園のようです。

  そして広々とした庭の見える一廓に、「松本軍団」なる恐ろしげな名前の部屋があります。でも中からは、楽しそうな話し声、笑い声までが聞こえてきます。そうです、ここはF兄弟を団長とする患者の会・松本軍団の部屋なのです。そこから「松本病院」のホームページが発信され、メールで自由に意見交換できる掲示板サイトも、大人気です。患者も元患者も気軽に出入りでき、そこで話をしたり話を聞いてもらうと不安や心配が和らぐと、とても好評です。その中に、あれっ、私もいます。松本先生に元気にして頂いた元患者の一人として、治療中の患者さんや今なおアレルギーで苦しんでおられる方々のために、出来ることがあるならどんなことでもさせて頂きたいと、張り切ってやっています。

 

  最後に 

 

 2002年9月3日にして頂いた血液検査では、

血沈   19  (正常値12以下)  

CRP  0.1 (正常値0,6以下)  

ZTT  8.6 (正常値12以下)  

RF   38  (正常値15未満)でした。

血沈とRFが正常値を上まわっていますが、体調は、全て正常値だった時と何ら変わりはありません。むしろ体調がいいので色々とやり始め手を延ばし過ぎて、その疲れが数値を悪くしているのではと思っています。

今年の夏(2002年8月)、今まで家に閉じこもってばかりいたこの私が、二十数年ぶりに高校と大学のゼミの、ふたつもの同窓会に笑顔で参加しました。大学のゼミの同窓会では、それぞれの近況を話し合った時私は、自分がリウマチであったこと・それと息子のアトピーで十数年苦しんできたこと・すごい先生のお陰で元気にならせて頂いたことを打ち明けました。二十数年ぶりにお目にかかった、少しもお変わりなくお元気でいらっしゃったゼミの先生も、懐かしい旧友たちも皆とても喜んでくれました。家に帰ってから、私の中の奥深い所から込み上げてくるものがありました。

初診日に待合室で手記を読ませて頂きながら、自分もきっと元気になって手記を書くんだと思っていた私が、本当に、こうして手記を書かせて頂けるようになりました。松本先生には、何と感謝を申し上げてよいのかわかりません。松本先生、心より有難うございます。また手記を書かせて頂いている過程において、松本先生の凄さを再認識すると同時に、自分自身の心をじっくり見つめるよい機会となりました。それは時につらい作業でしたが、色々と多くの発見・気づきもあり、総じては楽しいものでした。松本先生、本当に有難うございます。月並みで在り来りの言葉ですが、これしかありません。

手記を書き終えるにあたって、松本先生、織田先生、看護婦さん、受付の方々、ホームページに携わっておられるスタッフの方々、皆様に改めて心より感謝申し上げます。有難うございました。

 

 追記

  

 2002年10月1日、私は午前の診察の折に、松本先生にこの手記を手渡しました。その夜の7時頃電話が鳴り、ナンバーディスプレイを見た主人が「松本医院からやで。」と私を呼びます。ホームページに関するある事で松本先生のご承諾を得ていましたので、そのスタッフの方からかと思いました。ところが、松本先生ご本人だったのです。びっくりする間もなく、先生はもう私の手記を読んで下さっていて、一つだけ気になることがあったからと言われます。そして「アトピーだった息子さんのことで、そんなに自分を責める必要はない。責められるべきは、他にある。そんな事で折角のあなたの第三の人生に、暗い影をつくることはない。」という意味のことを、静かに言って下さいました。私は電話口で、臆面もなく泣いておりました。松本先生にお出会いしてからハッピーそのものだった私に、ただひとつ、よりつらくなったのは、重症のアトピーだった幼い頃の息子への思いでした。私のその、より深くなった心の傷に、松本先生が暖かい手をさしのべて下さったのです。初診日、大きくはない華奢な手から私の手に感じた、松本先生のやさしさを、私は今、心で感じています。

 松本先生(ドクター・マツモト)ではなく、ひとりのものすごくステキな男性である、松本仁幸氏に、心より有難うございます。 

2002年10月2日