昭和9年9月21日、私は6歳で小学校の1年生でした。前夜からの激しい喘息の発作で母は私を抱きかかえたままであったといいます。夜明けを待って掛かり付けの医師に注射をてもらいましたが、記憶はおぼろげながら室戸台風が来襲していたのです。気象観測の発達していなかった当時、前夜の予報は「風強かるべし。」とのみであったそうです。幼い私の体が感知してすごい発作として現れていました。(低気圧の際に喘息発作が起こるのはよく知られていますが、そのメカニズムは謎です。しかし、私の考えでは気圧が低くなることにより、気管や気管支を開ける圧力が弱くなり気管支が縮まり、息が出来にくくなるためであると理解しています。)(大阪市の小学校の何割かが全壊し、始業直前のこととて多くの死者が出ました。私の同窓の子供6名が死に教育塔に合祀されています。) 私の父は私の生まれる一ヶ月前に結核で死亡しています。数え年29歳、当時としては最高教育を受け、祖父母の希望の星であったと思われます。その後生まれた一粒種の孫に愛情は集中しましたが、とにかく弱かったのです。特に気管支や胃腸が弱く、すぐ発熱し咳をします。そこで大人たちは極端な方法を取って私を保護しました。夜風に当てるな、果物は一切にて食べさせろ、勉強はさせるな、幼稚園にも小学校へ行ってさえ、泥遊びや遠足は禁止でした。もちろんそれでも私の咳はこころよくなりません。当たり前と思いますが周りの大人は真剣に小児科医と仲良くし、家で咳止めの水薬を調合して飲ましてくれました。ゼネガシロップ・桜皮シロップ等局方の瓶と計量カップを覚えています。(桜皮は文字通り桜の木の幹の皮であり、現代の漢方煎剤でもよく用いられます。) ある日祖母が漢方がよいと聞いてきて、オオバコと何かを煎じて飲むように命じました。それはとても幼児の飲めるようなものではなく、一回や二回は飲むのですがどうしても即効性はありませんし、我慢強かった私も拒否しました。そのころでも母たちは喘息の注射はどうも悪いように思っていたらしく、今は聞く由もありませんが何とかオオバコ療法をしようとしたらしいのです。一計を案じた母と祖母は春になると近郊の野でオオバコを摘みました。たくさんとっていたと思います。陰干しをし、すり鉢ですって粉末にし瓶に詰め、オブラートで二包ずつ毎食後飲みました。これが松本先生の漢方にかなっているかどうかわかりません。しかし大人も本人も几帳面に一回も欠かさず三年間飲みました。春はオオバコのお浸しもよく食べました。いつとはなしに発作は出なくなり、毎朝これも欠かさなかった乾布摩擦とともに水練学校さえ卒業するくらいに健康になったのです。爾来あの太平洋戦争を経て、戦後の混乱の中、学業も続け、教職と書道の二足のわらじをはいて数十年、何とか生きてきたのですが、50歳を越し書道でもいささか責任のある仕事をするようになって、ふと咳が出始めました。 始めは市販の鎮咳薬、次に近所の内科医院、次第に治らぬまま呼吸器の医師を求めて投薬・注射、とてもよいという評判の医院で或日点滴を受け、咳も出なくなってうれしく帰宅して筆をとりますと、何と筆の穂先がブルブル震えるではありませんか!そのときまさか薬の副作用とは露も思わず、「わー、私もついにくるべきものがきた。」と老齢に結び付け落ち込んでしまいました。ところが翌日になると手が震えたりはしません。少しほっとしてもらっている内服薬を飲みつづけました。しばらくするとまたひどい咳です。」喘鳴というものがきて夜昼やかましい限り、私はこの現象は仕方がないと思っていました。でも立場上、他人様の前で話さなければなりません。(この方は著名な書道家で、和文字では日本を代表される書道家のお一人で、関西書道百人衆に名前を連ねておられます。)「ぜろぜろ、コンコン…」失礼であろうと、友人の医師夫人の薬剤師に頼んで「あした司会をせんならん、よくきく咳の薬持ってきて。」ハイハイ、と持ってきてもらったカプセルは実に劇的にきいて、会議の間中まったく発作は起こりませんでした。しかし、心臓がドキンドキンと音を立てます。この時は一時的なものかと勝手に判断をして、次の時またその妙薬を頼みました。途端に胸は早鐘を打ちます。やっと落ち着いた私は「あの薬飲むと心悸亢進するけど…」と言ってみました。「ああ、あれ誰でもそうなるのや。」という答えが返ってきて、いくら何でもそれはおかしいと気付きましたが、なす術もありませんでした。(この薬はβ‐スティミュレイターといって、気管支を開けますが、同時に心臓を刺激しすぎて、動悸が早くなることがあるのです。) ある時舞鶴は講師として招かれて、宮津で一泊させてもらった時、何気なく咳で困っている話をしました。ところが「治るかどうか知らんけど行ってみたら?」と。「当時のSさんが膝をひどく痛めておられたのは知っていましたが松本先生の所ですっかり元気になられた。なお、Sさんの令嬢のかおるさんが子供が出来なくて心配しておられたのが、松本先生のおかげで良いお子さんを3人も授かった。」(漢方煎剤は老化による変形性膝関節症を治すのみならず、不妊症も治すことができます。数え切れない患者の膝の痛みを除去し、何十人もの不妊症も私は治してあげました。) 宮津の宿で松本医院の住所を伺い、帰阪して翌日高槻へ行きました。漢方薬を昔々飲んで快くなったことを思い出し、当時の先生の面影は記憶しておりませんが、すぐ飲み始めました。三日ぐらいした時、同居している息子の妻が「おばあちゃん、効いてきたね」と言ってくれました。周りの者が気付く位、咳は止まったのです。(喘息の症状を取ることは漢方煎剤は実に簡単にやってのけてくれます。)1週間で随分楽になりました。きっちり1日三回飲みました。その年の夏、東京へ十日間ある書の展示会の審査に行くので、松本先生に相談のうえ漢方の顆粒薬を頂きました。私の経験では絶対に煎じ薬の方がよろしい。よく知らない人はそんな気がするのやと言いますが、これは気分ではないようです。(漢方煎剤は二番だし、三番だしも飲むことができるので、顆粒よりも二倍、三倍も良く効くのです。)2、3年間きっちり漢方煎剤を飲みました所すっかりあの苦しい喘息は姿を消してしまいました。突然治ってしまうという変な終わり方でしたが、治る時は嘘みたいでした。(自然後天的免疫寛容が起こると急に症状は嘘のように消えてしまうのです。)弟子や友人の間で私のひどい咳が治ったのを見て驚き次々と困難な病気の人が松本医院の戸を叩きます。しかし、先生のおっしゃることを信じ、守ることの出来ない人も多くいることは事実です。そんな人達は決して治りません。(漢方は現代医学では治せない難病を、数多く治すことができるのです。しかし病気によっては完治するまでかなりの長期間飲まなければならないこともあります。気の短い現代人は完治するまでに途中で漢方煎剤を飲むことを止めてしまうことはしばしば見られることです。残念です。)漢方の煎剤がおいしいものではないので、根気良く続けることが難しいので、弱い人間には続けることが難しいこともあるのでしょう。でも私はあの苦しかった咳から松本先生に救って頂いた証人です。あと何年生きるかは不明ですが死ぬまで元気でいたいと念じています。 松本先生と共に亡き母、祖母と漢方に深い感謝を捧げます。(現在は完治され来院されておりません。) |