
「クローン病手記・中間報告~完治へ」
兵藤 あい子 28歳 2013年6月30日
クローン病と診断されたのが19歳。その時の症状は最悪。腹痛、下痢、発熱、嘔吐、下血……全ての症状が出ていました。 もともと、お腹が弱く下痢をしやすい体質でした。今思うとほとんど下痢をしていました。中学時代にはすでに痔がありましたが、痛みもなく出血もなかったのでそのままでした。
中学校を卒業しそのまま専門学校に入学しました。学歴は中卒になることは承知していましたが、10歳のころからの夢「ファッションスタイリストになる」ためには学歴は必要ないと考えたことと、一日も早く夢を実現させたかったからです。専門学校での日々はとても充実し、楽しいものでした。楽しすぎて勉強も遊びも全力疾走でした。このころは寝ることも後回しにするほど興奮状態が続いていました。昼夜ステロイドホルモンを出し続けていたのだと思います。 夢であったファッションスタイリストになることを追い続け4年ほどが過ぎました。専門学校卒業を半年後に控えた夏、東京でファッションスタイリストのアシスタントをすることになりました。卒業に必要な不足分の単位は働きながらレポート提出することで卒業できる専門学校独自システムを適応することを選びました。
このころには下痢、下血があり、腹痛も酷く痛みのために吐くこともしばしばでした。時々、ふっと倒れることありました。熱が出ることも多くなり身体がだるく動くのも辛い日々でした。痔ろうの悪化もありました。膿がたまり腫れが痛くて歩くのも辛くなりました。東京から愛知に住む母と電話でやり取りをするうちに母が「様子がおかしい、とにかく見に行く!」と強い口調で電話を切り翌日には東京に母がやってきました。激痩せしている私を見て母が愕然としたほどでした。それでも病院へ行くのを渋る私の心の内を母は見抜いていたのでしょう。だって、やっとの思いで掴みかけた夢の尻尾を放したくないじゃないですか。母は私の身の回りのことを手伝ってくれ、買い物をして来てくれました。「どこでもいいから近所の内科へ行って相談しなさい」と言って帰っていきました。
それからも電話で母が病院へ行くことを促すので、しぶしぶ近くの内科医クリニックで診察してもらいました。 「整腸剤のビオフェルミンが出た」 母へと報告すると 「ふぅ~ん、症状をメモ書きして持って行かんかったでしょ?どこまで伝わったかわからんね。激痩せ状態は過去を知っている人しかわからんし……、初めて会う人には普通の十代の女の子だでねぇ……、まあ、様子見ということか……」
母にはバレてる。でも、今はここから離れたくないし数か月後には楽しみにしている専門学校の卒業旅行でパリに行きたいし。そんな思いがあったと思います。パリ旅行を二週間後に控えた正月休み、帰省の時母に会いました。成人式用に準備してくれていた振袖を母に着せてもらっている途中、急に吐き気がして吐いてしまったのもこのころです。これだけ酷い状態であっても、私はあまり深刻な事態だとは思っていませんでした。そう思いたくなかっただけかも。相変わらずビオフェルミンを服用してその場しのぎをしている私に母の怒りの一撃が飛んできました。 「とっとと病院へいけ!そんなんで、パリ旅行へ行けるとでも思っとるのか!!」 やっぱりばれとったわ……。
正月休みが終わり東京へ帰りましたが、仕事を理由に診察を先送りにしていました。悪あがきです。やっとクリニックで検査を受けたのがパリ旅行準備のための帰省前のことだったと思います。検査結果は旅行から帰ってから聞けばいいと思ったのですが……。あまりにも採血結果が悪かったため、実家で旅行準備をしている私の携帯にクリニックから直接連絡が入りました。
「今すぐ大きな病院で精密検査を受けるように」と。 土曜日でも診察してくれる総合病院が一つだけあったのでそこへ行きました。そこでも採血。異常な数値。即入院。パリ卒業旅行へ行けない……。検査、検査。結果、クローン病と判明。一旦、退院し母の元へ身を寄せる。私が中一の時、両親は離婚して母は一人家を出ました。一人暮らしの母の所へまさに転がり込みました。私の夢はどこへ行くのか。消えてしまうのか。心身ともにボロボロでした。クローン病はその総合病院では治療できないので市民病院か大学病院かどこかもっと大きな病院を紹介すると言われ大学病院を選び、紹介状を作ってもらいました。明日は紹介状を持って大学病院を受診するという日の明け方から高熱が出て救急車で運ばれることとなりました。もちろん大学病院でも即入院でした。内科での対処療法と検査が続き、看護師さんともめたこともありました。鼻に管を通してそこからエレンタールを流し込むなんてありえない!!!ちゃんと鼻に管を通すのも1回はやってあげたけど、私には無理。これ以上辛いことを増やさないでいただきたいわ。色々な検査をしていくうちに病状が明らかになったが、腸の癒着や瘻孔が酷く外科の医師にすぐにでも手術が必要だと説明を受けました。その1週間後に手術をし、目が覚めたときには人工肛門になっていました。2年半程の人工肛門生活を送り、痔ろうも落ち着いたので人工肛門をしまいました。この人工肛門の時期は、週3日程度のんびりと高校に通いながらの生活でした。高校を卒業するころには人工肛門もしまい、病状も落ち着いていたので今後どうするか考え、大学受験を経験してみて受かれば通うというように決め受験をしました。
薬学部に合格し、大学生活を送ることになりました。しかし、1年が経つころから、体調を崩すようになり入院の回数が増えました。そして、2011年8月末に入院したとき、主治医に今度悪くなったら再手術が必要だと言われ、今まで拒否してきたレミケードも使うことを勧められました。手術もレミケードも拒否したい。そんな時、母に今後どうしたいのかと詰め寄られ自分がどうしたいのか真剣に考えました。この時、母に追い詰められなかったら松本医院には出会えなかったでしょう。のん気で楽観的であまり考えない私には必要なことでしたが、この時は涙をこらえながら少し怒りも混ざった様な複雑な状態でした。
病室のベッドの上で携帯を使ってどうにか治療方法はないかと調べていて『松本医院』手記にたどり着きました。この時はまだ入院中で主治医の先生は退院することに後ろ向きでしたが、早く退院をして松本医院に行きたかったので半ば無理やり病院を出ました。
2011年9月末に初めて松本医院に行きました。待ち時間のことはあまり覚えていませんが、松本先生の「ぜったいに治る!」という力強い言葉と握手はしっかり記憶にあります。私の中に安心感が広がり、涙が出ていました。 鍼灸治療も初めてでしたが、とても気持ち良くて近くに住んでいたら毎日でも通いたいぐらいです。この日から、漢方煎じ薬とお灸と漢方風呂が生活に加わりました。何事も完璧を目指してしまう性格のようで無理をしやすいところがあります。これからはもっとおおらかに物事を考え、出来なくてもいいのだと考えて治療にあたっています。
ちょうど漢方治療を始めて1年がたった2012年9月末にリバウンドがきました!待ちに待ったリバウンドです!が、く……苦しい……。下痢、嘔吐、発熱(37度ぐらい)、腹痛に一晩苦しみました。下血はありませんでしたが、お腹の中身を取り出してしまいたいぐらいの激痛でした。3日間辛い日が続き、4日目にはすこし食欲も湧いたのでお粥を食べました。ご飯が食べられたので、 抗ヘルペス剤と抗生剤を飲みました。1週間経つ頃には出歩くこともできるようになりました。
とても辛かったですが、良くなる過程だとわかっているので不安はなく痛みに堪えるのみでした。今は、腹痛もなくなり、ひどい下痢も収まっています。 熱が出る前よりも調子がよくなっている感覚があるので、これからどんどん良くなっていくのだと思うと凄く嬉しいです。 これで中間報告を終わります。
2012年10月18日
ここまで書いておきながら手記を送信しないまま8か月が過ぎてしまいました。その後の経過を書き足したいと思います。
手記を書いたことで気持ちにひと段落ついたのか、気持ちが緩んだのか、毎日欠かさず漢方煎じ薬を煮出し、持ち歩き、食前食後きちんと飲んでいた漢方薬をさぼるようになりました。このころはアトピーも出始め煎じ薬がアトピー用に変わった頃でもありました。罪悪感がありましたが出来ない自分を思い切って許すことにしました。今はちょっと休むだけと。
それから、休学中の大学への復学を考える時期でもありました。松本理論を読めば製薬業界・医療業界の嘘を実感し薬学部を辞めることにしました。かといって松本先生のような医者になるほどの能力はありません。身の程を知っておりますから(笑)。心理学部への転部試験を受けることにしました。病気は心で作って心で治す。心の在り方がどんなに重要なのか身を以て体験してきた私だから心理学部を十分に楽しんで卒業したいと考えました。
もともと、薬学部進学は時間稼ぎが目的でした。クローン病になり夢をあきらめたものの、じゃあ何をしたいかと考えても何も浮かびませんでした。そんな時は何でもいいから学校へ行けとの母の助言を受けて高校を卒業し、薬学部に受かったので薬の勉強を2年半しました。勉強は面白いけど薬学部は薬剤師ロボット製造マシーンみたいでした。短時間に追い立てられるかのように詰め込む勉強方法には疑問を挟む余地がなく、考えずに丸のみ込みできる者が薬剤師となっていけるようなシステムでした。
振り返ると、2011年8月末の入院を期に1年半の休学を決めると松本医院との出会いが待っていました。漢方治療に専念し松本理論を学びました。治るのだという安心感から心のゆとりが出たのか、幼いころから習っていた煎茶道の稽古を再開しました。お点前をする時の心の静まる感じを思い出しました。 松本医院への通院は母と一緒に通いました。月一回を目安に京都のお寺巡りの旅を兼ねて一泊旅行としました。働く意欲も出てきてアルバイトもしました。事務のアルバイトでしたが、病気のことも伝え休みたいときには休める環境を与えてもらえる職場でした。
漢方薬を飲むのをさぼることも覚えました。でも、松本先生に怒られたことはありません。「漢方はまだありまぁす」って言うと「そうか」と言うだけでいつもの楽しくにぎやかな診察時間を楽しませてもらえました。そして、2013年2月末「どうやぁ、もう、治ってるんちゃうか?自分の感覚はどうや?実感あるやろ?」って聞かれ「はい!治ってるって思います!!」って叫んじゃいました。松本先生はがっちり握手してくれ「後、気になる症状は何や?」って質問してくれました。気になるのは両腕内側に出ているアトピーと痔ろうの膿がまだ少し出ることと伝えました。「痔ろうは最後まで残る人があるんじゃ。アトピーはクラススイッチの証拠じゃ。手記書いてや~!」と。
あれから、2か月半、アトピーはどんどん酷くなり赤く腫れあがり痒みも強い日々が続きました。痒かったら掻けばいいという先生の言葉も安心の要素です。抗ヘルペス剤をのんで赤い軟膏を塗って掻きたいときは掻く。そんな日々を続けながら先月(5月)の受診を終えたころ、のどの痛み、だるさ、咳、頭痛が現れました。これもリバウンドでしょう。何も心配しませんでした。身体が辛いときは迷わず大学の授業を休みます。この春から薬学部から心理学部へ転部していて授業がとても楽しいと感じています。楽しいと思える授業に出会えたことも嬉しいことです。この時のリバウンドの後からアトピーの部分の表情が変わってきました。赤く腫れあがっていた部分の腫れが引いて赤みも消えカサカサしてきました。色は薄い痣がある感じで痒みは相変わらず強いです。気が向いたときに抗ヘルペス剤をのみます。つるつるのきれいな肌になる日を楽しみにしているところです。
そうそう。つい最近、2か月ほど前だったかな。ずっと通院している大学病院で、抗ヘルペス剤が欲しいですってお願いしたのですけど処方してくれませんでした。なぜでしょうね。唇の症状には塗り薬を使って様子をみてからにしましょう、ですって。思い出したので書いておきます。
最後に、漢方は症状を和らげてくれるもので漢方さえ続けていれば完治するものではありません。自分自身の考え方や生き方を健康にしなければ意味がないのです。私は松本医院に出会う前から、クローン病は治ると心のどこかで感じていました。しかし、今ではリバウンドだとわかるような症状も松本先生に出会う前まではクローン病の症状が酷くなったのだと思っていました。漠然と『治る』と感じるだけではなにも変わりませんでしたが、松本先生に出会って松本理論を学び漢方を始めたことで変わるきっかけができました。松本先生には本当に感謝しています。今、本当に楽しい生活を送っています。今までに味わったことがないぐらい体が軽いのを感じています。昔は体が凄く怠かったのを思い出しますが、そのころは怠くてもそれが当たり前でした。これは本当の健康を感じている今だからこそ、分かったことです。こんな風にあのクローン病になった体と同じ体でこんなにも楽しい体験ができることを本当に幸せに思います。本当にありがとうございます。あともう一つ!病院で、あの時、追い詰めてくれた母にも感謝しております。
以上で中村ゆかりの娘の中間報告を終わります。
