
「ヘルペス(五十肩)手記 vol.2」
中村 ゆかり 53歳 2013年7月2日
拝 啓 松本仁幸さま
「ヘルペス(五十肩)手記vol.2」を書き始めます。平成25年5月18日(土)その日は五十肩治療を初めて二度目の受診日となりました。ちなみに、今日は5月21日(火)です。
初診は平成25年2月27日(水)でしたので2か月と20日ほど経っての再診となりました。もちろん抗ヘルペス剤もなくなっていました。初診の後、抗ヘルペス剤を服用し、身体の中で起こるヘルペスウイルスと免疫の闘いを実感しつつ、身体の変化を言語化し順調な回復ぶりに心躍る日々を送っていました。しかし、6週間たったころ実母が亡くなりました。首や肩のコリがなくなり身体ってこんなに軽いものだったのかと実感していたころだったと思います。痛む箇所は微妙に位置を変えてはいるものの肩の動きは日に日に良くなっていました。自分で着物の帯結びができる日も近いと思っていたころでした。
初診日からちょうど6週間、4月9日(火)~10日(水)にかけての一晩、寝たきりの入院生活が8年4か月に及んでいる母のベッドの脇で過ごしました。もう自力で目を開ける力もなくなっていました。看護師さんが瞼をめくりあげてくれ「この目は見えているよ」と言ってくれました。覗き込むと目が合い、母の目から涙がこぼれました。私が見た最初で最後の母の涙でした。母の口癖「泣きたくても涙が出んだ。私は泣けない女だ」を思い出しました。その辛くて長い人生の一部に寄り添った私は、その涙の深い意味を知っているよという想いを込めて涙をぬぐってやりました。母の人生については別のところで書いているのでここではこれ以上触れません。それから二日後、12日(金)の深夜2時半ごろ母はこの世のすべての苦しみから解放されました。
母の死は覚悟していました。とはいえ、人ひとり見送るのは大変なストレスがかかるはず。回復途中の私の五十肩の変化に興味がわきました。私の副腎皮質はステロイドホルモンを作り出して活発になっている免疫活動を一時的に抑えてしまうのだろうか。折りしも、抗ヘルペス剤は底をついており、手持ちのクスリはありませんでした。今なら松本医院へ電話で抗ヘルペス剤の処方をお願いすればいいじゃないかと思えるのですが、やはり動揺していたのかその時は全く思いつきませんでした。
通夜、告別式は葬儀会館で執り行われました。母の遺体は入院していた病院から葬儀会館へ直接運ばれることになりました。母が脳出血で倒れて8年と4か月が経っていました。以来、実家では父と犬一匹と猫一匹の暮らしが続いていました。当然、実家は他人さまに集まっていただけるような状況ではないのと、妻の死に気丈にしているようでもボロボロの父を慮って私の弟が喪主代理を務めての決断でした。夜もまだ明けない午前3時、私は病院から母の遺体が葬儀会館へ搬送されるのを見送ると、呆然としている父と一緒に実家へ戻りました。葬儀会館へは弟が付き添い今後の打ち合わせに突入。夜が明ければ実家へは近所の方々が集まってくるとのこと。玄関周りと庭をザッと掃除して、お茶の用意を整え、気づくと夜が明けていました。庭では母が愛した牡丹が沢山のつぼみを付けていて、今まさに開こうとしているところでした。足元生えている庭の草を、何を考えるともなく抜いていると近所の方々が訃報を聞きつけて集まってきました。怒涛の三日間の始まりでした。
この間、私の肩の痛みは消えることはありませんでした。すべての痛みから解放された母の傍で仮眠する程度で過ごした二晩、かわるがわる訪れる母の兄弟姉妹や親せき、近所の方や、母の友人たちと涙を流したり、口ぐせを思い出して語り合ったりと興奮状態が続いていたはずです。それでも、肩周りの痛みは移動しつつ私の腕の可動範囲を狭めていました。耳鳴りや軽い頭痛も復活していました。こんな状況の中でも私の免疫は休むことなく戦っていてくれるんだなぁと思ったものです。どんな時も私が生きている限り身体の中で免疫は闘い続けているのだと思い知らされた瞬間でした。けなげじゃないですか。
24時間365日休むことなく……、いつか私の呼吸が止まり60兆個すべての細胞がその働きを終える時まで決して休むことなく、私の身体の隅々まで点検し、相手(異物)に応じて闘い、排除し、必要最小限の細胞自殺を促し、時には共存さえする。今、ここで、この瞬間、生きているということはそういうことなのだ。すべての闘いを終えて安らかに横たわる母の顔を眺め、その対比にひれ伏した。
さて、今日は5月22日(水) 二度目の受診から4日が経ちました。その日(5月18日)には自主的に鍼灸もしてもらっていたんです。 「お母さん、鍼予約した?」 出かける直前、松本医院通いの先輩である娘にこういわれるまで気づかなかった私です。 「そっか、その手があったか……」 という訳で、電話すると12時半の予約が取れ、出かけることにしました。
松本医院通いも一年と八カ月目。院長のワッハッハシャワーを浴びるのは私たち母娘にとっては心のシャワーみたいのもの。道理を求め続け真理を見極めて生きている人は、この世の中にそんなに多く居るわけじゃない。このことを知っているからこそ松本院長に出会える診察日は貴重なのです。豪快な笑い声は正にシャワーのごとく診察室に溢れ待合まで流れ出します。道理を追及すること、真理を見極め真摯に生きることは、歪んだ貨幣経済においては正に孤独な闘いだと思っています。貫き通せる人は少ないのです。松本仁幸院長は真理のみを見極め提示してくれています。それを掴むか掴まないは私たち個人の問題です。そう、きわめて個人的な問題です。掴めば自己との対峙が同時に始まってしまうからです。それが怖いならおのずと松本医院からは遠のくことでしょう。仕方がありません。漢方科松本医院に一歩足を踏み入れた人は誰でもが既にその過酷な道を歩みだしてしまうからです。そう「自己との対峙」という過酷で険しい道のりを進まない限り本当の意味での健康な心身は手に入らないからです。病気はそのきっかけに過ぎません。松本仁幸その人は、肉体的病気治療と心の在り方の矯正は同時に行われるべきと考えておられるはず、いや、そもそも別々に考える方が間違いなのでしょう。肉体に心が宿ってこそ『人間』なのだからじゃないでしょうか。
鍼灸を体験している間から既に軽い頭痛が現れました。いい感じです。免疫が目覚めた証でしょう。頭に鍼の刺激は筋肉を緩めたのか、刺した瞬間から上がりにくかった腕がそれまでより上がるじゃありませんか。身体は正直なのですねえ。感動的なまでに正直です。この時現れた軽い頭痛は今(5月22日現在)も続いています。「今、ここで戦っているよ~」という合図だと思っています。それにしても、松本医院の鍼灸先生の腕、いいですねえ。近所の鍼治療へはもう行けません。違いを知ってしまいました(笑)。
最前線で戦っている免疫兵が有利に戦えるように抗ヘルペス剤を服用してやります。ヘルペスウイルスの勢力を少し押さえてやると免疫がますます頑張ってくれるのが分かります。免疫活動に余力が出てくると他の部分にひそんでいるヘルペスウイルスをついでに見つけ出して戦い始めてくれるのが分かります。耳の閉塞感がそれだと思っています。この時、間違った治療(治療って言っちゃいけないんですけど……)で頭痛薬とかステロイド剤とか使っちゃうと免疫兵が撤退しちゃうのですよね。免疫とヘルペスウイルスとの闘いは一時休戦ということ。当然痛みはなくなります。でも、それこそが戦わずして我が領地(肉体)を敵(ヘルペスウイルス)に空け渡すこととなるということでしょう。ヘルペスウイルスがニヤリとほくそ笑んで、神経細胞に沿ってじわじわ進軍していく様子が見えるようです。おお~怖っ! 痛み止めやステロイド剤を多用しているとヘルペスウイルスが身体中のあらゆる場所にはびこってしまうことに……。怖いですね~、恐ろしいですね~。それでもけなげな免疫兵は必ずやヘルペスウイルスを見つけ出し、封じ込め作戦を決行してくれる。それが生きるってことだから。生きることは戦うことと言い換えることができるのだと悟った。平和というのは、せめぎ合いの均衡の上に微妙なバランス感覚で浮かんでいるのかもしれない。ふとそう思った。本当の平和は各個人の心の中にあってみんなが一斉に掴み取るような……、そんな部類のモノでもないのじゃないかな。さて、私の手記は「ヘルペス」についてだから割とシンプルに書ける。 でも、娘の「クローン病」だからもうちょっと複雑だ。免疫と化学物質との闘いだからだ。生物の進化の過程では存在しなかった化学物質、殺せるわけもない相手。殺す必要がない相手を殺そうとした結果、生じた炎症の数々を治していくのには、免疫自身が気づきを得なければならない。「おや? ワタシは間違ってたかも……?」って具合にね。免疫さんが気づくまでには少しばかり根気がいるみたいですね。松本理論をもっともっと読み込まなくっちゃって思う。読めば読むほど身体の仕組みのすごさに感動するし、自分の中に理論が落ちてくるから。そして、感謝の気持ちが溢れてくる。
さてさて、本日は5月28日(火)です。二度目の受診日から十日が過ぎました。抗ヘルペス剤の服用は大雑把なところで一日二回服用しています。記録メモを見てみると一日四回服用したのは19(日)、20(月)と22(水)の三日間のみ。後はだいたい朝夕の二回となっている。20(月)は年休を取っていて家に居たのできちんと服用。しかし、仕事に行くようになると忘れる……。そんなもんです。忘れるってことは身体の要求を感じないからだろうぐらいに思っているのですが、一度だけ、忘れたことをショックだと思った日がありました。23日(木)のことでした。その前日、一日四回の服用でいい感じを実感していたのでもうしばらく一日四回服用を続けようと思っていたからでした。なのに、忘れた。その朝、出掛けにお昼のクスリを鞄に入れようと思っていたのに忘れたのです。電車の中で気付いたとき軽いショックを初めて感じました。 「えっ? 今、ワタシってショック感じているじゃん!」 という具合に。こちらの方がショックでしたけどね。日頃は、忘れるってこともそれなりに意味があると思っている私でもショックを感じるってことが新鮮でした。まあ、それほど切実に痛みがあったってことですけどね。結局その日は、帰宅後と寝る前の三回服用したと思います。その後は結局、朝夕の二回服用で落ち着いています。それから、不眠とこむら返りの症状が出ています。こむら返りはヘルペスだって知っていましたが、不眠は興奮してるから眠れないんだって思ってました。でも「原田病」の手記に書き加えられたコメントを読んでいて「ああ、不眠さえヘルペスウイルスと免疫との闘いの証だったのか!」との思いに至り納得。不眠はなくなりつつあります。そうだ!それから、五十肩の症状が出始めたころと時を同じくして歯肉炎治療も始まっている。歯科医院へは二~三ヵ月に一回の割合で受診することになっている。もうすぐその日がやって来るからこの変化も楽しみになって来た。
えっと、話を戻して、二度目の受診日から数えて十日目の今日は帰宅後すぐに休みました。布団を敷いて寝たという意味です。今月から転職して―――そうなのです、転職したんです。業務内容、給料は変わらず、一日の就労時間が1.5時間減る。これって転職するしかないでしょ―――ってな訳で一日の労働時間が6時間となった今、帰宅後のひと休みということで疲れたなと感じたら…というか、眠いと感じたらそれは寝なきゃいけないのですよね、免疫が戦っていてくれているから。で、お布団を敷いて寝ちゃいます。帰宅するのが午後四時半過ぎなので、以前にもまして、時間はもちろんのこと気持ちにもゆとりがあります。松本理論のおかげで五十肩の痛みや諸々の症状があることへの不安もなく、身体の内側で起こる変化(もちろん、心理的変化も含みます)を面白がって観察している状況です。もちろん不眠さえ(笑)
で、今日、変化があったのです。夕方の一時間ほどぐっすり眠って目覚めた瞬間「肩が軽い!」って思ったのです。劇的に軽いです。可動範囲がぐんと広がったって感じました。まだ、角度によっては痛む箇所がありますが腕を回すことができるのです!熟睡できるようになった矢先です。 「ラジオ体操第二~!」って、思わず腕を振り上げ叫んじゃいました。 「チョウシニノラナイノ!」って、すかさず娘にたしなめられたのですが……。 「フッフッフッ、楽しみです」
今回の五十肩治療がきっかけとなったヘルペス治療でいろいろ思い当たることが出てきたので書き留めておこうと思います。今回は二つ思い出したことがあります。 一つ目は、高校一年の夏休みに体験した強烈な頭痛。一晩だけでしたがひどい頭痛で眠れず大騒ぎをした記憶がよみがえりました。翌日、母に国立病院へ連れて行ってもらいました。症状を訴え検査をしてもらった結果は異状なし。 「頓服を一回分だけ出してあげるから持っているといい。我慢できれば飲まないこと。お守りだと思えばいいから……。」 その時のドクターがそう言っていたことまで思い出しました。赤い薬包紙に包まれた粉のお薬をその後しばらく持ち歩いていたこと、いつの間にかなくしてしまったこと。ありました、ありました、そんなことが。あの時の頭痛は、高校受験で頑張っていた時にそれなりにステロイドホルモンを出し免疫を抑制していたのでしょう。無事高校へ合格して新しい学校生活にも慣れた夏休み、私の免疫が本来の仕事をし始めたということだったんですね。その後も軽い頭痛は毎日のように経験していましたが、結局、痛み止めの薬を飲むことはありませんでした。もともと、身体の内側で起こる感覚を観察するのが趣味のような私ですので、痛みが始まると「おお、来た来た~」と状況を把握。激痛で我慢が出来なかった体験は既に済ませているので、それと比べてどんな感じがするのか……、落ち着いて痛みの変化を観察していました。すると、数十秒間の間に痛みの山場を迎え、自然に治まって行くのが分かるようになりました。 ヘルペスだったんですねえ。今から三十七年も前のことがはっきりと甦りました。
もう一つは、32歳の時のことです。長男の不登校を解決するために奔走したことを思い出しました。四ヶ月でひと段落した後、三ヵ月ほどして強烈な背中の痛みが現れたコトです。この時のストレスはやはり大きかったのでしょうねぇ。自分のことならまだしも、小二の息子の将来に大きく影響を与えるであろうこの時を人としてどう立ち向かうか考えました。悩んでいる暇はないです。待ったなしで判断し行動しなければ手遅れになると考えました。こどもの心を侮っていないからこそ真剣勝負だと思ったのです。
余談ですが、不登校のこどもを持った親たちへのメッセージは、その当時、四年間にわたって発信し続けました。文章であったり、勉強会であったり、ワークショップであったりと沢山企画したものです。企画者の私が目の当たりにしたのは、親どものアホさ加減でした。どこまでも、かたくななまでに学ばない親たちに反吐が出る思いでした(ゴメンナサイ、でも真実です)。そして、学ばない親の元で不登校からひきこもりへと移行していく過程を、胸を痛め固く握った拳をワナワナと震わせながらも立ち尽くすしかなかった。私には本物の理論がなかった。
しかし、見えてきたものもあった。私自身の中に根深く潜んでいた両親への不信感と恨みの感情だった。病気であれ困難であれ必要なのは素直な心で立ち向かうこと。それこそが重要なのですね。どんなに未熟な理論でもそれが自分の理論であるならばその時はそれでいい。その瞬間、その瞬間にできるかぎりの判断をし、行動を起こすことだと思います。そうすれば真実への扉が少しずつ開いていくのだと思います。「なぜ?」と問い続けるべきです。自分自身と対峙してしまうから勇気と根性が入りますが、やっただけのことはちゃんと返って来ます(笑)。
そうそう、背中の真ん中の痛みでしたね。これはそれまでに体験したことのない痛みだったのではっきり覚えています。喉の奥から肩甲骨と肩甲骨の間、 ど真ん中辺りに向かって薙刀が突き刺さった感じ……。矢が刺さるとかいうような生易しいものではありませんでした。驚いたわー。それでも病院へは行かなかったのですけどね。病院嫌いとかじゃありませんよ。基本的に医者を信用していないのです。危機感も特に感じなかったからだとも思いますが。医者を信用しない出来事は小学校一年生の時に体験しているのですが、このことはまた別の機会にでも……。 「後から来るよねー」 「そうそう、何かコトがあった時ってその時は感じてないのだけど、けっこう後から来るよねー」 ママ友(今は一言で表現できる言葉があって便利だわ)と当時こんな会話をしたのを覚えています。数ヵ月は続いていた背中の痛みや胃の違和感などいろいろ症状はしだいに毎日の暮らしにかき消されて薄れていきました。免疫がヘルペスウイルスを見つけ出して戦ってくれていたんですね。もっと身体をいたわってあげるべきでした。そんなことを知らない私はいつも通りに忙しくしていたと思います。そして、ストレスがかかる度に背中の痛み、耳の閉塞感、首こり・肩こりなどを体感していました。今思えば全部ヘルペス!!
5月31日(金)抗ヘルペス剤:朝・夕2回服用。軽くなった肩周りのストレッチをしてみた。腕の上げ方、角度などによって痛む場所が違うから痛みのポイントを探す。痛いところでしばらく止めて痛みを十分感じてやる。そこでは今まさにヘルペスと免疫の闘いが繰り広げられているところ。だから、そこに意識を向けて「ありがとうね。ご苦労様」って言ってあげる。そうしたら、なぜかお肉、食べたくなった。食べたら無性に眠たくなってきた。だから寝る。明日は休日だ。
6月3日(月)今朝まで頭痛(痛む箇所は右の後ろ寄りから少し前に移動して左寄りの痛みになっていた)があったが、夜、頭痛が消えていることに気が付いた。ふむ、ヘルペスウイルスと免疫との闘いがひと段落ついたのか、ステロイドホルモンを作り出して免疫を抑制してしまったのか、どちらかだろうが……。そんなことを考えていたらまた別の場所での頭痛が現れた右寄りのおでこに近い部分だ。どうやらステロイドホルモンは作り出していないようだ。免疫兵たちはガンガン戦って戦場を移動しているらしい。今日もその働きぶりに感謝して眠ることにする。
6月4日(火)今日は正真正銘!「あたまいたくな~い!!」爽快です。肩の可動範囲も順調に拡大中。耳の閉塞感は一昨日から一切なし。抗ヘルペス剤は一日二回服用を続けています。今日は帰宅後の眠気がなく趣味のお裁縫を二時間と決めてキモノを縫っちゃいました。ワタクシ、もともとはプロの「仕立て屋」なんですが、キモノの仕立てのみでは食べていけないので今は趣味となっております。もちろん着物は二時間では仕上がりませんので気分の良いときに縫うのですが、二時間くらい縫うと気分転換がしたくなる。という訳で、もう一つの趣味「作文」をこうして書いているという訳なのです。脳みそも使う部分が変わると疲れ知らずな気がするのですよね~。 今日も痛む部分を見つけると「免疫さんたち~ありがとー!!」と心の中で叫んでおります。さすがに通勤電車の中や職場では叫び声を上げないように自粛しておりますが。娘と二人暮らしの自宅では思いっきり叫んでおります。ちゃんと免疫さんたちに伝わっているように思うのですが……、いかがなモノでしょう。
6月5日(水)頭痛・耳の閉塞感・こむら返りは今日もありません。肩の可動領域はますます広くなっています。が、昨夜は久々の不眠を自覚しました。 まっ、こういうこともあるでしょう。今日も快適にお勤めを済ませ帰宅。 しばらく休憩した後、二時間のお裁縫タイム。良い気分転換になるのと徐々に仕上がって行くという達成感も新鮮な味わいです。というのも、仕事でキモノを縫っていたころは納期に追われ楽しむ余裕などありませんでしたから。遠~い昔のことですが……。 そして「作文」これがまた楽しい。松本仁幸という人に出会えてますます楽しい。どうしてかというと、私が書く文章をそのままに受け取ってもらえるからです。別に深い想いを書こうとか思っている訳ではありませんが『小説とエッセイ』という文化講座に通っていると、仲間からは「意味が分からない」「こどもが分かるはずもないことだ、作品設定がおかしい」「修行もしていない者の表現ではない」「上から目線だ」などとよく言われます。素直に書いた文章に批判が降り注ぐのもそれはそれで理解できます。もっと若かった頃はそれが嫌で相手が理解できるであろう表現でとどめていましたが、やめました。あなた方とは経験の意味を深く追求する貪欲さあ違うだけですから。(また、それこそが上から目線だと言われそうですが、どっちがだと鏡で反射して返してやるわ。ワッハッハのハー)
6月28日(金)久しぶりにこの手記に向かい合っています。手記から遠ざかっている間に嬉しいけどちょっとストレスな出来事を体験しておりました。 6月16日(日)に大きな茶会が催されたことです。娘と私が所属する煎茶道松月流が毎年開催する新茶奉納煎茶会で、クローン病完治の娘が席主を務めることになっていました。その席で私はナビゲーター役、つまり、おしゃべりでお客様をおもてなしという役割でした。娘にとっても私にとても初めての体験。一席30名のお客様を10回おもてなしする新茶奉納煎茶会。一回の席は30分ほど。娘はお点前を、私はミニ講演を連続で行います。この日の準備に向かって徐々にテンションが上がって行くのを感じていました。茶会前日は道具の搬入と席づくりです。土曜と日曜で茶会準備と本番が済みますが、その前後は年休を取ってゆとりのスケジュールとしておきました。ストレスが高まる本番前日あたりから抗ヘルペス剤の服用を増やそうと思っていましたが、現実は忙しすぎて飲み忘れました(笑)。いつもと違うリズムにすっかり忘れ、結局いつも通り朝と寝る前の二回の服用となってしまいました。前日の準備を終えたころには頭痛が酷くなっていましたが眠る頃にはすっかり治まっていました。何とこの日の就寝時間は娘とそろって20時50分(笑)。当日は4時起き。身支度を整え、食事を取って、会場へ。スタッフ12名で300人のおもてなし予定。怒涛の一日が始まりました。
チームワークで多くのお客様に感動を味わってもらえた達成感を感じつつ帰宅。翌日は娘も私も休日となっていたので、思いっきり寝ました。そして、念願の抗ヘルペス剤を一日四回服用しました。ふぅ~。お茶会の前後一日ずつ休みにしたのは正解でした。気持ちにもゆとりが持てゆっくり休むことができたのが良かったのか、頭痛もあれ以来ありません。
6月24日(月)には親友のSコちゃんの手記「潰瘍性大腸炎 偏頭痛 リウマチ手記」匿名希望 54歳 2013年6月13日を松本医院HPで読んだ。
2011年9月、クローン病で入院中の娘が病室で半泣きで見つけた松本医院HP。娘が読み、私が読み、受診、通院が始まった。すぐに手ごたえを感じた私たちは、松本医院の存在を発信し始めた。伝わる人も伝わらない人もいる中で、Sコちゃんは実践してくれました。私たちが松本医院を訪れたのが2011年9月、彼女が受診したのが11月です。そして、手記が掲載されるまでに彼女は回復しました。手記を提出する前に電話がかかって来て、私の実名と娘さんが登場するが良いかというモノだった。もちろん快諾。なのに、彼女自身は「匿名希望」で提出するという。まあ、彼女らしい発言に二人で大笑いしました。彼女の手記の中で特に心に響いた言葉があります。「松本先生、無理やりにでも手記を書かせてくれてありがとうございます」という一文です。書くことで彼女は過去の自分自身と真剣に向き合っているからです。言葉にすること、他人に読まれることを意識して書くということの威力を感じました。彼女は続けて言います「何回も書いては直すうちに色々気付く事が出来ました」と。松本先生は手記を書くという作業を治療の一環として取り入れられておられるとも思いました。それに、自分が発信したことが実践を経て効果を得られた事実を知ることは発信者側にとっても強いエネルギー源になるもだと実感もしています。Sコちゃん、手記を書いてくれてありがとうねぇ。また、おしゃべりして大笑いしましょう!
もう一つ書き添えたいことを思い出しました。前の職場での出来事。今年、年始そうそうだったと思います。上司(40代女性)が、胸が苦しいと言い始めてしばらくたったころ、検査入院で欠勤しました。検査結果は何とヘルペス。病名は分かりませんが(ご本人も覚えていないとのこと)食道に穴が開く寸前だったとか。検査入院のまま帰れなくなり、治療となりましたが一週間から十日ほどで退院され元気に職場復帰されました。
「原因はヘルペスだったの~。とっても珍しいことなのですって~」って明るくおっしゃっていました。この時、私は松本医院HPは専門家の人にも確実に読まれているって直感的に思いました。ヘルペスは決して珍しいことではないはずだけど、そのドクターはそう言って自分の罪の軽減を目論んだのか……(笑)。
松本先生! 真実は必ず勝利します。真実は裏切りませんものね。本当にありがとう!何百回でも叫びたい気分です。ありがとうございます!!!
そして、みなさん。手記を書きましょう。あるがままの自分を書けばいい。途中で怠けることだってあります、強い人ばかりじゃありません。忘れることだってあります、人間だもの。どんな経過だって言葉にすれば誰かの助けになるのです。そして誰よりも自分自身を助けることになるのだから、手記を書いて提出しましょう。
私の五十肩はまだ痛みます。可動範囲はかなり大きくなってきてはいるものの、角度によっては激痛が走ります。まあ、五十数年も生きていれば、それなりに誰だってヘルペスウイルスがはびこっているのでしょう。五十肩とはよく言ったものです。そうそう、昔は「神経痛」っていう言葉もありましたよね。最近は聞きませんが……。全くよく言ったものです。ヘルペスは正に神経痛そのものですものね(笑)ヘルペスが神経細胞との親和性によって生き延びる以上、私たちは生きている限りヘルペスとは縁が切れません。このことをしっかり理解すれば抗ヘルペス剤とも縁が切れないのもおのずと分かります。また、生きている限りストレスとも縁を切ることは出来ません。そのストレスとどう付き合うかはそれぞれの心の在り方ということなる。だから、松本理論を学び、抗ステロイド剤を時には服用して手記(作文または当事者研究ともいう)を書いて心の在り方を見直す。これが松本理論療法(笑)。
重ね重ね申し上げますが、松本先生はすべての薬を否定している訳ではありません。免疫を抑えてしまうステロイド剤や鎮痛剤がダメだと言っていることをよく理解してくださいね。そしてもう一つ、漢方は最上級の食事だとのこと。なんて素敵。最高の食事は苦かったのですね(笑)
<おまけ> 娘の手記にないみたいなので付け加えます。
娘は松本医院での治療を続けながら、大学病院へも定期的に通っています。血液検査結果はCRPが0.5~1以下をふらふらしておりペンタサが処方されているそうです。これは痔ろうが最後まで残っており少量の膿が出る症状が残っていることと理解しています。徐々になくなって行くだろうと楽観的です。それにペンタサは余っているからと言って処方量を減らしてもらったり、処方箋そのものを薬局へ出さなかったりしているそうです。もちろん、ペンタサは全部捨てしまっていますし、松本医院での治療を始めて以来服用もしていません。でも、ドクターは何も言わない。「ドクターは気づいていると思うよ」と娘は笑って言います。それから、口の周りにヘルペスが出るから抗ヘルペス剤を処方して欲しいと言ったところ、ステロイドの塗り薬を処方しようとするので断ったとのこと。「奴らは知っているよね~」と私たち母娘は顔を見合わせます。娘がまだ大学病院へ行くのは障害者手帳の更新手続きに必要な書類を書いてもらうため。「治る病気を治らないと宣言し、障害者にしたのはお前らだ!!」クローン病は治っても障害者であることに変わりはない。ただそれだけ。
これが現実です。私たちは真実を学び歪んだ社会通念を見抜き、戦わなければなりません。でも、決して当たって砕けてはいけませんよ。賢く戦いましょう。真実を知る者の絶対数はまだまだ少ないですから。松本理論を自分のモノとできるほどには賢くない私には、無知の鎧で身を固めている者を論破するほどの力はありません。出来るところから、精一杯の発信をしているだけです。 そして、そのことに威力があると信じる一人です。松本理論を理解する人が確実に増えていると感じていますからね。
松本先生!これからも真実の理論を発信し続けてください。精一杯ついていきます! ヘルペス(五十肩)手記 vol.2を終わります。
2013年7月2日(火)
敬 具

注目の手記・ブログ
●かあさんくまさんの松本医院のアトピー治療ブログ
(2人娘はアトピっ子。「絶対に治る!」という主治医のコトバを信じ、ステロイドや抗アレルギー剤を使わず、漢方治療をはじめました・・・)
漢方科 松本医院について
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アレルギーは医学部の教科書には、現代の医学では治らないと書かれています。何故、一介の開業医である私は治すことができるのに他のお偉い方々は治らないとおっしゃるのでしょうか?いずれにしても、私が如何に大声をあげてアトピ-やリウマチが治るといっても変人扱いされるだけでしょうが、ここに証拠をお見せしましょう。ここで紹介される患者さんの手記は、巷に出ているノンフィクションの本よりも遙に感動的であり、今アトピ-や喘息やリウマチと戦いつつある患者さんの皆さんに大きな励ましとなるでしょう。このホームページを読めば、体の中で起こっている自然の正しい免疫反応を抑制してはいけないのに、見せかけだけを良くするために抑制して生じた薬害の後始末をすることが私の主な仕事となり、完治するのはアトピ-やリウマチだけではなく、同時に他のアレルギ-(アレルギー性鼻炎やアレルギー性気管支喘息やアレルギー性結膜炎)が全て消失してしまうのもお分かりになるでしょう。
患者さんが経験された厳しい症状などについて医学的な意味付けが赤字でコメントしているものもありますから、私のアトピ-やリウマチの治療法がさらによく理解できると思います。何回も読み返してください。この記録から、ステロイド・抗アレルギー剤・抗ヒスタミン剤・抗炎症剤の免疫抑制剤が一時的に症状を良くしても、結局は見せかけの治療薬に過ぎないことが理解され、とりわけステロイドの乱用によりステロイド皮膚症になった人が、いかにステロイドから脱却し、最後はアトピーやリウマチを治しきってしまうこともお分かりになるでしょう。
アトピー・リウマチをはじめ、全てのアレルギー・膠原病の治療において、一切ステロイドを使いません。
それは、ステロイドをはじめとする免疫抑制剤を使っている限り、アトピー(アレルギー)やリウマチなどの膠原病はもとより、全ての病気を治すことができないからです。また、私は何も漢方で治しているのではなくて、正しくは漢方を使って免疫を上げて、患者の免疫を高め続けることによって、自分でクラススイッチをしたり免疫寛容を起こさせたりする手助けをしているだけなのです。漢方が治したり、私が治したりしているのでもなく、あくまでもあらゆる病気は自分の免疫で治しているのです。
漢方治療中(治療中でなくても)、市販の風邪薬は飲まないでください。
市販で売られている、もしくは他医院で処方された風邪薬の中には、抗ヒスタミン剤や、抗アレルギー剤が含まれています。とりわけ、小児用の風邪薬の中には、必ず、ぺリアクチンという抗ヒスタミン剤が入っています。私のアトピーや花粉症の患者さんの治療が、なぜか長引いてしまうことが時にありました。この方々は風邪を引くたびに、このぺリアクチンの入った市販の薬を服用していた患者さんたちであることがわかりました。これらの風邪薬は、鼻水や鼻づまりなどの見かけの症状を取りながら、同時に、本来のアレルギーを抑制しています。風邪が治ったあと、必ずリバウンドが繰り返され、アトピーをはじめとするアレルギーやリウマチの完治が遅れますので、服用しないでください。
松本医院の「なぜ」
病気とは何でしょうか?
病気とは、人体に不必要な異物が侵入してきたときにそれを排除しようとする正しい免疫の働きに見られる症状のことを病気だといえば一番わかりやすいでしょう。となれば、病気とは否定的に捉えるのではなくて肯定的に捉えるべきものではないでしょうか?つまり否定されるべきものは侵入してくる異物であり、病気そのものではないのです。言い換えると異物が人体に侵入しない限り、免疫の働きは行使される必要はないのです。この世から人体に必要な5大栄養素と水と空気以外の異物が存在しなければ、病気は絶対に起こらないのです。言い換えると、病気を起こす原因は人体に不必要な異物なのです。
それでは異物には何があるでしょうか?2種類しかありません。ひとつは、病原細菌であり、ウイルスであります。これらはワクチンと抗生物質で征服されてしまいました。つまり、間単に殺すことができるようになったのです。このために人類の寿命は飛躍的に延びました。ふたつめは何でしょうか?まさに近代化学が作った化学物質であります。この化学物質が人体に侵入したときに、それを排除する免疫の働きの症状がアレルギーとなるのです。
アレルギーとは何でしょうか?
アレルギーとは環境汚染物質を体内から排除する働きであります。何故アレルギーは増えたのでしょう?環境を汚染する農薬をはじめとする化学物質が極めて多く作り出されるようになったからです。実はリウマチもアレルギーのⅢ型であります。
膠原病とは何でしょうか?
膠原病はアレルギーと同様、環境汚染物質という同じ敵を排除しようとしています。ただ、膠原病はIgG抗体を用い、アレルギーはIgE抗体を用います。つまり武器を変えて戦っているだけの違いなのです。
アレルギー・膠原病はなぜ治るのでしょうか?
敵は無限に存在する化学物質や環境汚染物質であり、味方はアレルギーの場合は有限であるIgE抗体であり、リウマチの場合はIgG抗体やリウマチ関連抗体であります。排除しても無限に繰り返し入ってくる化学物質を永遠に排除することは不可能であり、有限は無限に絶対に勝つことはできないからです。ところが現代の医学は異物を排除しようとする免疫の働きを一時的に抑制するだけですから、IgE抗体やIgG抗体やリウマチ関連抗体が再び作り出されいたちごっこになり永遠に戦いが終わらないのです。従って免疫の働きを一切抑制せずにアレルギーの症状を楽にしてあげるだけで最後はIgE抗体やIgG抗体やリウマチ関連抗体が作られなくなるのです。これを発見したのは世界で私が初めてなのであります。これを自然後天的免疫寛容と名付けたのです。
リウマチの患者さんの家族の皆様に
他医院で治療をされていない初期のリウマチは、「風邪よりも治すのが簡単である」と言っても過言ではありません。しかし、私の患者さんは当院に来られる前に間違った現代医学の免疫を抑制する治療を受けて来られる方がほとんどです。従って、私の治療を始めると、間違って受けてきた治療の度合いに応じて、多かれ少なかれ必ずリバウンドが出現し、それに伴い、痛みが増強します。大量のステロイドを注射されたり飲まされてきた人、長期に渡って他の病院でリウマチ治療を受けてきた人は、激しい痛みのために、自分自身の身の回りの世話が不可能になる事態もしばしば遭遇します。
そのために、私の治療を受け続けるには、絶対に家族の協力が必要となります。ところが、遠方から来られる方や、お年寄りの方の中には、リウマチ治療の困難さを全く理解せずに、すぐにリウマチが治ると思って気軽に一人で受診される方がいます。実際の治療の困難さや、具体的な私の治療法、何より私自身を知ってもらうためにも、初診時には必ず家族の方と一緒に来て下さい。また、患者さんはもちろん、家族の方も私のホームページに記載されている理論とその証拠である手記を繰り返し読み、私の理論と治療法を理解してから来て下さい。
また漢方薬だけでは絶対にリウマチを治すことは出来ないのです。他の免疫を上げる鍼・お灸・漢方風呂などを総動員して初めて徐々に免疫は回復し、上昇し、最後はクラススイッチし、自然後天的免疫寛容となるのです。