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    「リウマチ手記」 大橋 初子 48歳

    2009年5月8日

    1年半の闘病生活を振り返って

    1.はじめに
    地元の総合病院でリウマチ宣告をされたのが2008年2月。その後、「抗CCP抗体100」という結果を持って松本医院を訪れたのが2008年4月。光陰矢のごとしで、今月で松本医院にお世話になって丸1年を迎えることになりました。この1年、腫れや骨の痛みというよりはむしろ筋肉痛や異常感覚といった症状に悩まされ続けながらも、毎日真面目治療に専念してきました。その甲斐あってか、リウマチ因子(RF)は正常値に戻り、車椅子生活を余儀なくされていた生活からも開放され、健常者と変わらぬほどに歩きまわれるまでに回復しました。

    この奇跡とも言える程の回復は松本医師との出会いがなければおそらくあり得なかったことでしょう。松本医師に出会えたこと、彼の治療を受けられたことを心より感謝します。ここに私自身の闘病記録を書きしるし共有することで、世間では「不治の病」と言われる病気でも、正しい治療を受けさえすれば克服可能であるという証にできれば嬉しく思います。他院での治療経緯、松本医院との出会い、V字回復の軌跡の順に私の体験をまとめます。

    2.帰国直後の体調急変
    体調異変は突然に起こり、予期せぬスピードで進展しました。初めて体調の異変を感じたのは2007年9月の中旬。途上国での6年に及ぶ海外赴任を終え帰国して2週間も経たないころでした。最初の異変は腰(背中側)と右臀部に現れました。歩行に伴い腰全体には灼熱感を、右臀部には強い痛みを感じ始めましたが、その後、右臀部の痛みはお尻から右足底に一直線に走る痛みと痺れ(坐骨神経痛に似た症状)へと変化し、右股関節(右太ももの付け根)は次第に可動域が制限されるようになりました。この間わずかに1ヶ月半でした。腰椎ヘルニアを疑われ公立総合病院で腰椎のMRI検査を受けたものの異常は見つからず、「帰国後の環境不適応を原因とする精神的な問題に起因する歩行障害」と診断されました。その後は痛みや痺れが継続していたにもかかわらず、2ヶ月の経過観察となり、追加検査も特別な処置もされませんでした。この主治医(整形外科医長)の診断と処置に不満を抱いた私は、次なる病院を探し始めたのですが、どこにすべきか決めかねているうちに症状は悪化の一途を辿り、2007年の年末にはついに車椅子に依存しなければ移動できない状態に至りました。
    帰国直前にはスイス・アルプスを闊歩していた自分が、わずか2ヶ月で車椅子と介助がなければ移動できなくなってしまった現実が受け入れ難く、このころは涙する日々が続きました。健脚であった私の下半身がこんなにも急速に崩壊してしまったことは全く信じられませんでした。ただ「在日勤務と在外勤務を何度も繰り返してきた私が、環境適応が原因で歩けなくなるなんてありえない。」という強い思いが次なる病院へ行く決心をさせてくれました。

    2008年2月に私立総合病院で再検査を受けることにしました。このころには右股関節、右膝、右足首には時折強い痛みがありましたし、手足には「朝のこわばり」が現れていました。さらに、歩行困難も一段と進んでいました。血液検査を受けた結果、CRP値と抗CCP抗体値に異常がみつかったため(いずれも数値は100)、「初期リウマチである」と診断され、「リマチル」と「ノイロトロピン」を飲み始めました。ところが、治療が進むにつれて、血管拡張剤である「オパルモン錠(毎食後服用)」、精神安定剤である「メイラックス錠(就寝時服用)」、コレステロール降下剤である「クレストール錠(朝食後服用)」までも処方され“薬漬け”の状態にされました。薬は飲めば飲むほど体調が悪くなり、次第に立ち上がることすらままならない程に体力と筋力が衰えていきました。歩行困難が悪化していることを主治医(膠原病専門の内科部長)に訴えましたが、私の訴えなどには耳を傾けてはもらえませんでした。結局、リハビリを受けることができなかったばかりか、かえって処方薬だけが増えました。当然のごとく私の主治医に対する不信感は募り、再度病院を変える決意をしました。

    これら2つの病院での経験が私に怒りを感じさせました。症状が悪化していく患者(私)の声に耳を傾けない(患者が訴える症状を信じない)医師の態度に接し、怒りを禁じえませんでした。医師自らが率先して患者との信頼関係の構築を放棄するかのごときあるまじき行為だと思ったのです。相手にされなかったという屈辱感から来る憤りを今でも覚えています。そして、下肢の機能低下を放置され、適切なリハビリを受けることができないままに時が経過していく現実を空恐ろしく感じました。激務の勤務医が行う5分診療ではこのようなことが起こりうるのです。恐ろしい実態だと思いました。

    3.松本医院との出会い
    松本医院との出会いはインターネットでした。体に負担が少ない(副作用が少ない)治療を求めてコンピュータ検索した結果、偶然に出会ったのです。
    リウマチの代替治療に関する情報を提供するウエブサイトは複数ありましたが、その中から松本医師を自らの意思で新たな主治医に選びました。松本医師執筆の「革命的リウマチ治療法」を読んで彼の確固たる治療哲学と治療に対する情熱を感じたからです。残念ながら、私の医学知識不足から難解な医学理論の正当性については判断できませんでしたが、膠原病を発症するメカニズムの説明と原因特定の明確さには感銘を受けました。そして、「この医師に賭けてみよう。」「この人を信じてみよう」という気持ちがふつふつと沸いてきたのを覚えています。当時、薬漬け治療のせいで体力も体調もひどく悪化してしまっていた私には既に失うものはあまり残っていませんでした。仮に大学病院に転院して治療を受けた所で、今までと同じ治療を繰り返されるだけであることはわかっていました。であれば、医学会では主流でなくとも独自の理論を持って「必ず完治させる」と約束してくださる医師のもとで治療を継続したいと思いました。彼の医学理論の正当性はいずれ時の経過が明らにしてくれるだろうと受け止めることにしました。

    「革命的リウマチ治療法」には、わたしにとって心惹かれる箇所がありました。私が赴任中に抱き始めた疑問に対する解答が含まれていたのです。赴任中に抱いた疑問とは、(1)なぜ日本から赴任してくる同僚達は花粉症のようなアレルギー症状を発症させ苦しみ始めるのか?(2)なぜ同僚の中でも長期赴任者にアレルギー症状の発症が多いのか?(3)なぜ緑が少ない準砂漠環境でアレルギー症状が出るのか?というものだったのですが、「革命的リウマチ治療法」によれば、これらアレルギーの原因は人工化学物質らしいのです。環境汚染や食物汚染が大きな社会問題であった赴任地(新興経済国)について回想すればするほど、松本医師の説明がますます納得のいくものであるように思えたのです。「なるほど、そういうことだったのか!」と納得しながら読み進んだのを今でも鮮やかに記憶しています。私の疑問に答えてくれたという意味で、「革命的リウマチ治療法」は啓蒙的であるばかりか、説得的でもあったわけです。
    しかし、正直言えば、松本理論に基づく革新的な治療に対して、全く不安要因がなかったというわけではありませんでしたが、少なくても現状を打破して前進しようという勇気だけは持ち合わせていました。そこで、自分自身の判断と選択を信じ、松本医院を訪れる決意を固めました。転院に反対する保守的な両親を無事説得したうえで、2008年4月25日の初診日を迎えました。

    当日は、JR職員の介助と母の付き添いを得て車椅子に乗って松本医院にたどり着きました。松本医師からもリウマチであると診断され、この日から漢方薬と鍼灸治療を併用した東洋治療が始まりました。食前と食間に漢方煎じ薬を飲み、お灸を据えるという毎日のルーティンに、1日おきの漢方風呂入浴と週1回の針治療が加わりました。筋力低下が著しかったためかプロテイン(1日に大さじ9杯)とアミノバクト(朝晩に服用)も処方されました。

    4.回復への軌跡
    約1年におよぶ治療プロセスでは、かつて経験したことがないさまざまな症状に遭遇し、しばしば不安に押しつぶされそうになりましたが、確実に回復への道のりを歩んできました。その軌跡を時系列に記しておきます。

    2008年4月25日(松本医院での初診時)
    (4月の血液検査の結果:RF 45、CRP 0.05以下、血沈8、抗核抗体80)
    松本医院来院時には歩行困難を引き起こす複合的な問題を抱えていました。①両膝が錘をぶら下げているように重く、両脚を前に運べない、②両膝、左右太もも、左右ふくらはぎの筋肉がひどく硬直している、③両足首と右足太ももの付け根(右股関節)の可動域が大きく制限されている、④両足裏、右足首、右ふとももの付け根に痛みがある、⑤立ち上がれないほど両脚の筋力が低下している、⑥体重が減少し続けている、⑦体力がない。他の問題点としては、両手のほとんどの第1関節に弱痛を感じることと、両手脚に生じる「毎朝のこわばり」が30分ほど持続することでした。

    2008年5月(治療開始から1か月目まで)
    (5月の血液検査の結果:RF 40、CRP 0.05以下、血沈15、抗核抗体80)
    漢方煎じ薬を飲み始めてわずか3日後 (2008/04/28) にはリバンド(抗リウマチ薬の離脱症状)が出現し、強い関節痛に襲われました。具体的には、右手首の関節、両手の指関節、右足首の関節の痛みが強くなりました。中でも、右足首の痛みは酷く、睡眠が阻害されるほどでしたので、少しでも寝付きをよくするために、羽毛布団と毛布の下にトンネル状の筒を作りその中に両足を入れるという工夫をしました。トンネル状の筒があることで両足首と寝具とが直接接触することを防ぐことができ、痛む足首にかかる寝具の重みが軽減できました。他には、両手脚に感じる「朝のこわばり」が強くなり、起床とともに感じる下半身の不自由さは相当なものでベッドから身体を起こせるまでに2時間も要する日がしばらく続きました (2008/04/28~2008/05/06)。しかし、東洋治療を2週間も続けると、関節の痛みも朝のこわばりも嘘のように軽くなりました。

    一方で、時の経過とともに筋肉痛は治まるどころかむしろ増幅していきました。リバンドとしての筋肉痛は、左右臀部、左右太もも、左右ふくらはぎ、右足裏、両股関節周辺に現れましたが、特に、腰とお尻周辺のひりひり感と灼熱感が次第にひどくなっていきました (2008/05/02~)。そして、しばらくすると、増幅したひりひり感やチクチク感が身体の他の部位にまで拡大し、首、背中、胸、上腕、腹部などの上半身にはむずむず感までもが現れるようになりました (2008/05/12)。ついには、眼痛(結膜と眼底の痛み 2008/05/07~2008/06の下旬)、頭痛(両こめかみと両目の窪みの痛み 2008/05/09~2008/10の中旬)、外耳痛(両耳 2008/05/10~2008/08の中旬)までもが現れました。両耳下と左脇のリンパも時折痛むようになり (2008/05/14~2008/07の下旬)、その後には、右目の下瞼が連日ぴくつくようになりました (2008/05/24~2008/07の中旬、更に2008/10/03~2008/10の下旬)。毎日がこのような痛みとの戦いでしたが、松本医師からは「これらの症状は、免疫を上げる東洋治療により活性化したペルペス症状である」という説明を受け、処方薬アシクロビンを服用することで耐えました。

    2008年6月(治療開始から2か月目)
    そのうち治まるだろうと思っていた筋肉痛は全く治まらず、毎日がひりひり、チクチク、むずむずの連続でした。しかもほぼ全身症状でした。おまけに、頭痛、眼痛、外耳痛は凄さを増し、目のぴくつきも休むことはありませんでした。こんな状態でしたから、次第に精神的に参っていきました。情けないことに、しつこい症状に対する恐怖心と不安感から何度も松本医師に電話をかけてしまいましたが、こうすることでしか挫折してしまいそうな自分の心を支えられなかったように思います。「症状があるということは免疫が戦っている証拠。悪いことではない。耐えられませんか?」と何度言われても、長年にわたり洗脳されてきた「症状は病気の証拠、すぐに抑え込むべきである」という意識を変革するのは大変で、症状が治まるまで忍耐強く待つという治療方針に慣れるまでにはかなりの時間を要しました。そもそもなぜリバンドでペルペス症状に苦しまなければいけないのか当時の私にはほとんど理解できていませんでしたから、しつこいこれらの症状が腹立たしくて仕方ありませんでした。しかし、次第に精神的な落ち着きを取り戻すことができ、「異文化生活のストレスがヘルペス菌を増殖させた」という松本医師の説明が受け入れられるようになりました。確かに排他的な異文化の中ではかつてない程のストレスを感じたことは事実で、そのストレスレベルは病気になっても不思議ではないほどの過度なものでした。
    2007年6月は在宅でリハビリを開始した月でもあります。市役所から介護認定を受け毎週1回理学療法士による訪問リハビリを受けることができるようになりました (2008/06/28~2008/11/29)。訪問リハビリでは日常生活動作の向上を目標に、筋力増強訓練と可動域訓練が開始されました。当時の私の四肢には筋力低下と筋萎縮(廃用症候群)があり、右股関節と両膝と右足首には可動域制限が認められました。そのため日常生活の大部分(例えば、食事の準備と調理、排泄の処理、入浴、洗髪、車椅子での移動など)で母の介護を必要としており、家族には大きな負担になっていました。

    この月には、念願のリハビリセッションを開始することができた安堵感と同時に、怒りと悔しさも感じていました。リハビリが必要であったはずにもかかわらず放置されていた期間がこの時点で既に半年も過ぎてしまったことに対する怒りがどうしようもなくこみ上げてきたのです。介護認定に尽力してくださった松本医師には感謝する一方で、私のように機能障害に陥った者に適切な医療サービスを提供してこなかった主治医であった総合病院の2人の医師には激しい憤りを感じ、「もっと早い段階でリハビリを開始させてくださったら、私の体はこんなに酷い状態にはならなかっただろうに・・・」と思うと、悔しくて、悔しくて仕方ありませんでした。悲惨にも、当時の私は半寝たきり状態(1日に100歩未満しか歩けない状態)になってしまっており、寝室のカーテン越しに梅雨に濡れた草花や車道を行き交う人と車の流れを眺めながら、憂鬱に日々を送るしかなかったのです。この状態から始めるリハビリでしたから、前途多難になるだろうことは覚悟しました。

    2008年7月と8月(治療開始から3か月目と4か月目)
    (7月の血液検査の結果:RF 31、CRP 0.05以下、血沈10、抗核抗体80)
    (8月の血液検査の結果:RF 17、CRP 0.05以下、血沈10、抗核抗体80)
    初夏を迎えるころ、両目にコロコロとした異物感が現れました(2008/06/25~2008/11の下旬)。その後、その異物感は次第に増幅していき、時にはしかしかと感じることもありました。この新たな目の症状(異物感としかしか感)を松本医師は抗体のクラススイッチ(リウマチ発症に関与するIgG抗体がアレルギー発症に関与するIgE抗体へ変化する現象)によるアレルギー症状の出現であると捉えておられました。念のために受診した眼科専門医にはドライアイと診断されましたが、実際に服用したのは松本医師が処方してくださったアレルギー性結膜炎用の漢方薬だけでした。(漢方薬は異物感が特にきつかった8月から9月にかけて飲んだにすぎませんが、異物感はゆっくりと解消されていき12月を迎えるころには完全に消失してしまいました。)猛暑だった8月いっぱい、目痛と下瞼のぴくつき、全身のひりひり感、チクチク感、むずむず感は依然継続しました。ちなみに、8月のヘルペス抗体値は4月の値より大幅に上昇(単純ヘルペスが83.6→242.0に大きく上昇、水痘帯状ヘルペス は21.5→26.0に上昇)していましたので、免疫とヘルペスとの戦いは継続中であるとのことでした。

    2008年の夏は在宅リハビリの効果を少しずつ感じ始めた時期でもありました。「驚きの回復力」と理学療法士が形容するほどの進歩を遂げたのは、毎日の必死の努力の賜物でした。努力の成果として、8月には確実に2500歩くらいは歩けるようになっていましたし、階段の一段目や玄関の段差が昇れるようにもなっていました。わずか1センチの段差ですら乗り越えられなかった時期があったことや、ふらつきながらしかベッドから立ち上がれない時期があったことを考えると大きな飛躍をとげたことになります。依然大きな問題(右股関節の可動域が強く制限されていることや両脚の内転筋やふくらはぎに強い突っ張り感が残るという問題など)を抱えていたことは事実でしたが、わずか2ヶ月のリハビリでこれだけの成果を手に入れられたことに大きな喜びを感じていました。

    2008年9月(治療開始から5か月目)
    まだまだ残暑が厳しいころ、両目に更なる変調が現れました。起床時や暗転時に両目の淵(特に両目の横端と下端)にまるで花火か雷光のようなピカピカ走る閃光が現れるようになったのです(2008/08/26~2008/12の上旬)。そして、この光は次第に毎日現れるようになり、日中でさえ薄く光が認識できるようになりました。不安に駆られ、10月下旬に眼底検査を受けましたが、異常は認められませんでした。眼科専門医には「加齢現象である」と診断されましたが、松本医師はヘルペスによる神経症状ではないかと考えておられたようです。結局この閃光が見える現象は2008年12月上旬まで続きました。

    新たに出現した眼の症状には不安はあったものの、他の身体症状に少しずつ慣れてきたのでしょうか?このころから睡眠時間が増えていきました。今まで平均的に3~4時間しか寝られなかったのが、夜は6時間くらい、昼は1時間くらい眠れるようになりました。

    2008年10月(治療開始から6か月目)
    (10月の血液検査の結果:RF 14、CRP 0.05以下、血沈10、抗核抗体40)
    田んぼの稲穂が黄色に色づくころ、両手の甲に計6つの小さな赤い発疹が出てきました(2008/10/08~2008/12の中旬)。かゆみはほとんどありませんでしたが、軽いアトピー症状(松本理論によるIgG抗体からIgE抗体へのクラススイッチ)だったのだと思います。表れた発疹を見つめて、「私にもついに表れた! 松本理論は正しかったのだ!」と感じました。このとき初めて本当の意味で松本理論を信じることができたように思います。

    発疹以外には冷感 (2008/09/25~2009/04の下旬)と砂粒感 (2008/10/27~2009/03の上旬)も出現しました。「冷感」とは「体の中、特に筋肉の中を何か冷たいものが瞬時に流れ落ちていく感覚」のことで、それはまるで氷の小さな破片や冷たい水が皮膚の表面を流れ落ちるときに感じる一瞬ヒヤッとする感覚に酷似していました。私の場合、股関節及び太ももの付け根周辺、ふくらはぎ、足首、腰、背中、腕などでこの冷感をしばしば感じるようになりました。「砂粒感」とは「筋肉や関節の中にまるで小さな砂が入っているような感じ」のことです。この感覚が強かったのは、臀部、太もも、両膝、足首で、特にお尻や太ももでは椅子に座るたびに圧迫された筋肉の中につぶつぶとした砂のような不快感がありました。膝や足首では、関節の骨と骨の間に多量の砂が挟みこまれているような感覚や、骨の中から砂粒が次々に吐き出されてくるような感覚を経験しました。この異常感覚を引き起こしている原因は一体何なのか私にはわかりませんでしたが、これらの神経症状は、2日~3日のインターバルで出現と消失を繰り返しながら、ひりひり感やむずむず感、目の異物感と光などと相まって相乗的に身体的不快感を増幅させました。その上、砂粒感をともなう右足首の痛みのせいで順調に伸びてきた歩数を1000歩前後にまで後退させざるを得ず、リハビリ的には一時的な後退局面を経験しました。まさに忍耐の時期でした。

    他方で、車の運転が可能になったことで少しずつ生活圏が拡大していきました。継続的にリハビリを続けたことで、脚の筋肉や関節の動きが次第に改善し、その結果、車のアクセルを踏み続けることができるようになりました。また、アクセルからブレーキへ素早く右足を移動させることもできるようになりました。こうして、気分がいい時には近所を車で走ったり買い物に出かけたりする頻度が徐々に増えていきました。運転という何でもない日常活動でしたが、室内に閉じこもってきた私によい気分転換とささやかな自由をもたらしてくれました。ついに自宅に拘束され続けた単調な生活から解放されたのです。万歳!

    2008年11月(治療開始から7か月目)
     稲刈りが終わったころから更なる不快な神経症状を感じるようになりました (2008/11の上旬~2009/03の中旬)。炭酸飲料水が口の中や喉を通過する時に感じる「シュワシュワ感」や、小さく泡立つときに感じる「ぶくぶく感」を筋肉の中に感じるようになったのです。筋肉繊維が絡み合い粘りつく「ねばねば感」や、筋肉が裂けるような感覚も経験しましたが、頻度的には「シュワシュワ感」と「ねばねば感」が断然多かったです。

    2008年12月(治療開始から8か月目)
    冬の寒さが深まるにつれて、両手の全ての第1関節とその周辺が痛み出しました (2008/11の中旬~)。昨年の冬にはわずかな痺れとわずかな痛みでしかなかったものが1年後になってかなりの痛みに変わったのです。特に、起床時や昼寝から目覚めた時に強い痛みを感じるようになったのですが、指全体を4~5回開いたり結んだりする運動を繰り返すると、痛みが消滅してしまいます。まるで「朝のこわばり」のような症状でした。この指の痛みに直面し「もしかしてこれは症状の悪化ではないのか?」「病気は本当に回復してきているのか?」という疑念が湧いてきました。が、忍耐強く毎日お灸を続けました。体調が改善しつつあると思える出来事(手首のアトピー症状の終息、目の異物感と閃光現象の終息、在宅リハビリセッションの終了)が連続して起きていた時期だったからこそ指関節の痛みが悪化したことにはショックで、かなり動揺しました。

    2009年1月と2月(治療開始から9か月目と10か月目)
    (1月の血液検査の結果:RF 16、CRP 0.05以下、血沈10、抗核抗体40)
    歩数は順調に伸びてきていました。2008年11月には平均的に5000歩くらいは歩けるようになっていたのですが、年明けの1月には7000歩は可能になっていました。こうなると、今まで母の付き添いなくしては通院できなかった松本医院へも1人で行って帰ってくることが出来るようになりました。また、1時間半くらいなら連続で立ち続けられる体力もついてきていました。それでも自身を甘やかすことなく、自分なりの目標を持って筋力強化と歩行訓練に励みました。

    2月にもなると、昼の散歩時には春の日差しを感じるような暖かい日が続くようになりました。そして、木々の小枝には春を待ちわびる小さなつぼみが見られるようになりました。このころの私は、指関節の痛みやしつこい冷感、砂粒感、ねばねば感に一層悩まされてはいましたが、なぜかつぼみの開花とともに体調も体力も改善していくよう気がしてなりませんでした。「いつか私にも健康を謳歌できる春がやって来る。冬を耐えるつぼみのように、今は、我慢、我慢。」と自分に言い聞かせながら、来る日も来る日も歩行訓練と筋力強化を繰り返しました。

    気が付けば、2月下旬ごろからは急に目やにの量が多くなっていました (2009/02/26~2009/04の下旬)。酷いときには視界に霞がかかっているような感じになることがありましたが、これもIgG抗体からIgE抗体へのクラススイッチが起きている証なのかもしれないと思い、気長にこの症状が改善するのを待つことにし、薬は特に服用しませんでした。

    2009年3月と4月(治療開始から11か月目と12か月目)
    (3月の血液検査の結果:RF19、CRP 0.05以下、 血沈7、抗核抗体40)
    土筆が芽を出し、水仙や桜が開花し始めた3月中旬頃には、ようやく冷感、砂粒感、ねばねば感などの出現頻度が低くなり始めました。しつこく残っていた右足首周辺の筋肉(腱?)の突っ張り感もかなり改善し、歩行時の足腰へかかる負担が軽くなり始めました。こうなると早く社会復帰がしたいと気持ちがはやり出しましたが、最大の悩みは3時間くらいしか持たない持久力(体力)でした。たとえ非常勤の勤務をするにしても3時間しか持たない持久力では仕事になりません。そこで、体力づくりのために、晴天には長時間の遠出、雨天には長時間のウインドウショッピングに励むようになりました。意識して体力をつけるための活動を生活の一部に取り入れるように計画しました。

    4月には松本医院での治療を始めてから丸1年になります。
    季節が駆け足で一巡してしまいましたが、順調な回復のお陰で、久しぶりに穏やかな春を迎えることができました。毎日がきわめて平凡な生活ですが、ごく普通に外出できるようになったことがとても嬉しく思います。

    今年は8年ぶりに高齢の母とともにしばしば外出をして春景色を楽しんでいます。母と一緒に過ごす時間が持てたことは、親子としての交わりがほとんどなかった長い空白の時間を埋める意味でもプラスになっているように思います。今では私が病に倒れたことは親子の関係を修復するためにはそれなりの意味があったのだと受け止めています。

    今、自覚症状として残っているのは、腰と臀部のひりひり感と両手(8指)の第1関節の痛みだけですが、ともに痛みの程度は軽減してきています。
    右足首に残る突っ張り感(腱の短縮ではないかと思っています)も3月よりは改善してきていますし、4~5時間立ち続ける持久力もついてきました。この段階で松本医師から「中間報告を書いてください」と依頼されたということは、私もついに“完治”に至る長い道のりの折り返し地点までたどり着いたということのようです。

    5.終わりに
    「不治の病」と言われる病気を患い、1年半の闘病生活を送ってきましたが、今振り返ってみると、まんざら悪い体験ではなかったように思えます。すぐには治らない病気になったからこそ今までになくその病気について学び理解を深めようと努力しましたし、その病気を治療してくださる医師に対して強い感謝の気持ちを抱くことができるようになりました。

    また、一人でも生きていけると粋がって独身を貫きキャリアに邁進してきた自分が、突然病気で倒れてみると一人では全く何もできない(一人では生きていけない)という現実を嫌と言うほど痛感させられ、50歳からの生き方を再考するいい機会にもなりました。そして、要介護者になったからこそ知りえた現実や見えてきた現実もありました。人の温かさと冷たさ、頼りにならない親族、根強く残る居住地域の閉鎖性、弱者の置かれている立場、制度の限界など直に肌で体験できたことで、いい意味でも悪い意味でも今までとは異なった視点で世の中を捉えることが出来そうです。そして、何より「まだまだ先のこと」と受け止めていた介護の問題や関心が薄かった障害者問題がより身近に感じることができるようになった自身の成長を評価したいと思います。

    最後に、私や他の多くの患者さんに喜びや希望を与えておられる松本医師の独創的で革新的な治療が、今後世に広く認知され、その功績が大きく評価される日が来ることを切に願います。

    けげんな表情を浮かべる医師、「そんな治療を受けていていいのですか?」 と私をいさめる医師、「その先生、大丈夫ですか?」と首を傾ける医師、どれも松本流リウマチ治療を私から聞かされたときの地元医師達の反応でした。ほとんどが肯定的なものではありませんでしたが、これらの反応がいずれ逆転する日が訪れてほしいと願っています。

    私は、松本医師を主治医に選び、今まで治療を継続してきて本当によかったと感じています。患者は健康を取り戻させてくださると信じる医師に希望を託すものです。私は、病気が完治するまで松本医院にお世話になるつもりでいます。松本先生、今後もご指導よろしくお願い致します。

    参考データ(松本医院で治療を開始して以降のデータのみ)

     

    血沈

    CRP

    RF

    抗核抗体

    単純ヘルペス抗体

    水痘帯状
    ヘルペス抗体

    2008/04/25

    8

    0.05以下

    45

    80

    83.6

    21.5

    05/27

    15

    0.05以下

    40

    80

     

     

    07/03

    10

    0.05以下

    31

    80

     

     

    08/06

    10

    0.05以下

    17

    80

    242.0

    26.0

    10/15

    10

    0.05以下

    14

    40

    234.2

    24.8

    2009/01/09

    10

    0.05以下

    16

    40

     

     

    03/27

    7

    0.05以下

    19

    40

    257.2

    17.9

     

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