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    「リウマチは治る」 横山 敬子 62歳

    2010年2月

     最初の痛み
    2006年11月26日 息子の合気道の演武会を見ているときに、なんだか肩が今までになくつるような感じで、今思うとそれがリウマチの痛みの始まりでした。その3日後、私は夫と長女と共にハワイに向けて旅立っていました。快適な気分でハワイに降り立ち「思ったほど暑くないね。」などと言いながら、夫はその場から他の人たちとゴルフ場へ直行。娘と私はホテルにチェックイン。徹夜の連続でやっと飛行機に乗る事が出来た娘は、ベットに横になるなり寝入ってしまいました。「後で起こしてあげるね」などと言っていた私もいつの間にかうとうとと寝てしまい、日暮れが近づくまで目が覚めませんでした。夫が帰って来て皆で食事に行こうとしたときに、足を踏み出すと親指の付け根が痛み、すこし腫れてもいるようでしたが、その時は長時間飛行機に乗ったから足がむくんだのかなくらいにしか思いませんでした。
    翌日は娘の国際学会の発表が同じホテルであったので、その発表を聞いたり、他の部屋をのぞいたりゆっくり過ごせたので、さほど支障は無く過ごせました。3日目には両足の指の付け根がさらに腫れてきました。サンダルだったので靴ほどは履きにくくありませんでしたが、遊覧バスに乗るのも手で体を引き上げるような調子でした。そして次の日には足の腫れは幾分引いてきましたが手首が腫れて痛くなり、帰るときは旅行かばんを持ち上げる事が出来ず、キャスターで押すのが精一杯でした。

    最初の診断
    帰った翌日、会社の近くの内科医のところで診て貰いました。「痛風も疑われるけれど、まず血液検査の結果を診てからだね。」と言われ、そのままではつらいでしょうから痛み止めを出しましょうと「ロキソニン」を処方されました。
    3日間飲みましたが、少しも痛みは引きません。3日目に検査結果を聞きにいくと「膠原病、リウマチですね。」と言われ、あまりに突然で言葉もありませんでした。というのも、夫の実家の隣に住む奥様が、長い事、リウマチに苦しんで、ご主人は定年後、ずっと付きっ切りで介護していたのを目にしていたのです。なんとつらい病気なのだろう、と思っていました。

     とにかく、専門病院で診てもらわなくてはと思い、インターネットで膠原病・リウマチ科のある病院を探しました。リウマチに関する情報も調べましたが、症状が書いてあるくらいで、あまり役には立ちませんでした。
    たまたま、近くの病院に大学病院から1週間に1度だけ来る先生がいて、そこへ行って、診てもらうことにしました。年末の12月28日でしたので、来ている患者さんはほとんどいなくて、すぐに診てもらうことが出来ました。その先生は「リウマチって言われたの、まあ違うと思うけど、ちょうど正月休みだし、ゆっくり休みなさい。そうしないと本当の病気になってしまうよ。薬は出さないから、病気は自分の身体が直すんだよ。休むのが一番の薬だ。検査の結果は休み明けに聞きにいらっしゃい。」といった調子で、なんだか拍子抜けしてしまいました。正月のあいだ家で寝たり起きたりの生活をしていて、痛みはその間、あちこちに移動しました。毎日起きるたびに今日はどこかなと、もぐらたたきのような状態でした。寝返りを打つのもつらく、夜目がさめてしまいます。やっぱり働きすぎかな、とか更年期の症状かもしれないとか自分を納得させる理由を探しながら11日間を過ごしました。それでも、1月7日の仕事始めには出勤しました。気持ちが痛みばかりに向かわないので、かえって痛みを忘れていられました。

    大学病院専門医師との会話
    1月11日 病院に結果を聞きにいきました。
    「リウマチですね。」
    最初にそう言われた時よりはショックが少ない。やはりそうか、と思いました。
    「リウマチは治らないけれど症状を抑える事は出来ます。あなたに合った薬を探しながら、粘り強くやらないといけない。」
    「先生、リウマチというのは、どこに痛みが出ると決まった場所があるのですか。」
    「リウマチは骨と骨の間にある滑膜が炎症を起こしている症状です。足先や手の指、ひどいと首の関節にも出ます。薬を出しますから、しっかり飲んでください。私を信頼してくれなかったら、効く薬も効かないと言う事だってありますから。」
    「薬はステロイドを使うのですか。」
    「最初、ステロドをつかって症状を抑えます。リウマチの薬は効き目が現れるのに、1、2ヶ月かかるのです。ですから良くなったからといって飲むのを辞めないで下さい。」
    「でも、ステロイドの副作用って怖いと聞きますが。」
    「月のように顔が腫れたり、骨粗しょう症になりやすかったり、まあ他の薬より、副作用のオンパレードということはありますがね。でも、副作用の無い薬はありませんよ。医者と患者の信頼関係が病気の治療にはなにより大切です。
    薬をちゃんと飲むと約束してくれますか。」
    「。。。。。ハイ。。。」 
    先生の言う事は、とても正論だと思いましたが、ステロイドに対してだけは、どうしても信頼することはできませんでした。

    ステロイドの知識と子ども達のアトピー
    私の3人の子供達は小さい頃、卵のアレルギーを持っていて、30年前は医者もまだ今ほど深刻に考えていない時期だったのでしょう、塗り薬をくれるだけで何の説明もありませんでした。
    私は自分でアレルギーやアトピーについて、調べる事にしました。その中には、当然、免疫の話もあって、卵のアレルギーの場合は、卵を異物と身体が認識をして攻撃してしまうために現れる症状だと書かれていました。
    そして、ステロイドの害についても分かりやすく書かれていました。使い続けるとやがて効き目が無くなって、抑えられなくなる事。薬をいきなり止めるとリバウンドがあって危険な事。だから使うとしても少量にして、症状が改善したらすぐにやめること。くれぐれも使い続けてはいけないこと。そんな風に私のなかにステロイドという言葉はインプットされていました。

    そして、減感作療法のことが載っていて、1年ほど卵を食べるのを辞めて、肌がきれいになったところで、耳かき一杯の量から身体を慣らしていく療法があると説明がありました。これなら私にも出来るじゃないか、と無謀にも思ってしまったのです。まだ娘達は小さかったし私の目の届く範囲にいる。小学校の給食が一緒に食べられるように、頑張ってみようと思いました。今のように食品の内容が表示されていなかったので、どんなものに卵が入っているか、分かりませんでした。でもそれは、子供達の肌が教えてくれました。大変でしたけれど、耳掻き一杯の卵の黄身を食べさせる事が出来た時、そして、肌になにも異常が出なかったとき、涙が出るほど嬉しかったのを覚えています。今では卵とバターがたくさん入ったチョコレートケーキを食べても何も起こりません。でも、松本先生にその話をしたとき、卵そのものに反応するのではなく、鶏のエサにさまざまな添加物を混ぜるからそれが良くないのだ、と聞いてとても納得が出来たのです。

    息子の場合は最初から覚悟して、息子がおなかに出来た時から、私が卵断ちをしました。そして、離乳食に卵を入れるのを2歳からとしました。うまくいきました。息子の肌には何も起こりませんでした。3歳までは。
    3歳になった時、別棟に同居していた私の父がプロパンガスの爆発で亡くなったのです。父の家は全焼しました。母は手足のやけどで入院しました。火事の光景を3歳だった息子は覚えているといいます。父の葬式、母の看病、火事の後始末と身体がいくつあっても足りないくらいでした。きっと私のストレスが3歳の息子に影響したのでしょう。アトピーが出ました。その時に、ストレスはアトピーの大きな引き金になるのではないかと思いました。その息子もあまりひどくはならずに何とか乗り切りました。
    話が回り道をしましたが、そんな経験のなかで、ステロイドに対する不信感は私の中で膨らんでいました。そして、一か月分の薬をもらって途方にくれていました。

    松本先生との出会い
    翌日、心配をしたオーストラリアに在住している娘から、メールが届きました。
    「ネットで探したんだけど、リウマチを治してくれる先生がいるらしいよ。」とホームページのアドレスが添付されていました。
    「この松本先生という方は若干極論をいく方のようだけど、ママと気が合いそうです。」とコメントがありました。ごめんなさい勝手な事を言って。

    この一通のメールで私は救われました。

    むさぼるようにホームページに載っている文章を読みました。リウマチの項だけでなくアトピーに関する文章も読みました。こんな理論があるのかとびっくりしました。「免疫寛容」が起こるまで、待てばいい。そして、その理論を実践して、たくさんのリウマチ患者さんを治しているとのこと。治った患者さんたちのレポートもたくさん載っていました。私の心は決まっていました。夫にも相談しました。「行ってみれば、大阪まで。」と言ってくれました。実は一番心配もし、ショックを受けていたのは、私より夫かもしれません。

    松本医院
    次の週には大阪に向かう新幹線に、大学生の息子と乗っていました。
    松本医院の待合室には、たくさんの人が待っていました。
    最初に、看護士さんが、今までの症状やいつ頃から、発症したのか、今どんな状態なのかと細かく話を聞いてくれました。3分間診療とは随分違います。治った患者さんたちのレポートを読むように言われ、待合室で、読みながらしばらく待っていると、1冊を読みきれないうちに名前を呼ばれ、松本先生の診察を受けました。
    ニコニコと笑顔で迎えてくれ「いつ、リウマチといわれたの。」
    「えー、1月11日です。」 (2007年1月19日に松本医院を受診)
    「えっ! 今年の? めちゃめちゃ、ホヤホヤや。でステロイドを飲まずに来たのね。よう飲まずに、来たなあ。ステロイドを飲まずに来た人は、治りが早い。今日は誰と来たの?」
    「息子と来ました。」
    「いっしょに入ってもらって。」と大学生の息子もいっしょに先生の話をききました。先生の理論をまだしっかり理解できていなかった私には、時々分からないところもありましたが、「治してあげる。心配しなくてだいじょうぶ。私が、責任を持って、治してあげるから。」としっかり手を握ってくれた時は、それだけで、たぶん気持ちの半分は、治ってしまっていたのだと思います。
    その後、鍼の治療を受けました。初めての鍼体験でしたが、たくみな先生の話術に乗せられて、痛みもほとんど感じないまま、ゆったりとリラックスできて、身体がほかほかと温かくなりました。先生の話は楽しく、「よう、ステロイド飲まんと来はったなー。髪も染めてないし、化粧もほとんどせんし、優等生やなー。」と軽い語り口は、気持ちを安らげてくれました。

    治療(飲み薬・薬草の風呂・お灸)
    飲み薬は顆粒状のものと煎じ薬。
    煎じ薬はやかんで煮出して、それをさらにお湯で薄めて飲みました。これは作りたてほど甘みがあって美味しく感じました。
    鍼は1ヶ月に一度、松本医院に行った時に受けました。
    最初の時には、治療の次の日に全身がだるくなり、ひざが痛くて、歩くのも困難な状態でしたが、3日目には痛みが軽くなり、楽になりました。
    薬草の風呂は身体が温まって、とても気持ちよく感じました。どちらかというと冷え性の私は、風呂に入って、汗がぽたぽた落ちるという経験がなかったのですが、この薬草風呂につかると、20分ほどで額から汗が流れました。先生は1時間くらい入りなさい、と言っておられましたが、30分が限度でした。足先が朝までほかほかと温かく、幸せな気分になれました。家族も同じ風呂に入りましたが、84歳の母は、私と同じように足先が温かくて、よく寝られると喜んでくれました。

    経過 その1
    さて、一週間もすると背中がむずむずと痒くなり、ひざから下の部分が赤黒くなり、痒くなりました。この足の部分は毎年冬になるとカサカサして赤くプツプツと湿疹の出ていたところで、そのたびに痒み止めを塗っていました。その痒み止めが「フルコートF」という副腎皮質ホルモンを含んだものでした。とてもよく効く薬でついつい頼っていました。まずこの部分から、真っ先にアトピーが出ました。皮膚の下に溜まっていたのでしょうか、じっと潜んでいたのがあぶりだされた感じです。
    「痒かったら、掻けばいい。人間の身体はそのように出来ているんだから。掻いたら気持ちいいでしょう。そうして身体に必要のないものを外に出してやればいいんです。後をばい菌の感染がないように始末さえしてやればいい。」
    と言う先生の言葉にしたがって、風呂に入った時に爪を立てて掻いていました。
    入浴後、赤い塗り薬を塗ると皮膚はしっとりとして、少しずつ良くなっていきます。
    そして、2ヶ月くらい経つと痛みは少しずつ和らいでいき、いつの間にか食器を洗う事もやかんのお湯をポットに移す事も出来るようになっていました。
    そんなある朝、起きた時に目の前がボーっとして、ぼんやりカサの掛かったようになり、びっくりして何度か目をこすりティシューでぬぐうと、目やにが取れました。そして視界は元に戻りました。目やにが出る日が一週間ほど続き、これもアトピーと一緒で毒素を身体の外に出す働きだったのでしょうか。

    ルル2
    ある日、風邪の引き始めのように身体がだるくて、頭痛がし始め、仕事は終わったけれど家まで1時間かけて帰るのはきついなと思い、風邪薬でおなじみの「ルル」を2錠飲み、様子を見ようと思いました。
    いつもなら、30分すると効き目が現れるのですが、飲んですぐに猛烈な吐き気がし、トイレに飛び込んで吐こうとしましたが、胃の中にほとんど何も入っていなかったため、吐く事も出来ず、いすにもたれてじっとしていましたら、30分ほどして体中がしびれるような感覚に襲われ、そして頭痛は無くなっていました。
    今、私の身体が異物を一生懸命外へ出そうとしていたからでしょうか。ルルは私の身体が異物と認識し、吐いて外に出そうとしたのでしょうか。それもかなわず、腸から吸収されて、全身に行き渡り、私の感覚を麻痺させたのでしょうか。ちょっと怖い体験でした。そう言えば、松本医院の待合室に、他の薬を飲んではいけない、メンタムさえも使ってはいけないと書かれていたのを後になって思い出しました。今の文明社会はなんと罪深いものを生み出してしまったのでしょう。

    有毒化学物質について
    私は建築の設計に携わっています。シックハウスの問題が持ち上がり、なんとか化学物質を極力使わない家を作りたいと思っています。でもそれが今の時代、とても難しい事なのです。政府もさすがに危険を感じたのか、アルミサッシを使った密閉度の高い家は24時間換気を義務付けるように法規を変更し、ホルムアルデヒドを使用している建材の規制も始めましたが、有機化合物のすべてに規制が掛かったわけではないので、危険な事に変わりはありません。ホルムアルデヒドの害が多く、しかもいつまでも建材から出つづけると言う点で危険度が高いと言う事なのです。たかだか100年前には化学物質が使われていない家ばかりだったのに、いつしか科学の発達によって、私達は一見快適な生活を手に入れたように見えますが、実はとても大切なものを失ってしまったのではないでしょうか。
    レイチェル・カーソンが「沈黙の春」という著書の中で、農薬の危険性について告発したのは、もう50年も前の事です。有吉佐和子が「複合汚染」の中で一つの物質が安全値の基準以下であれば安全と言えるだろうか、複合的に考えたならば、安全値の何倍にもなっているのではないかと書いて告発してから、もう30年も経っているのです。
    農薬に汚染された食物を食べ、腐らないように防腐剤のたっぷり入った食品を食べ、(松本先生は米ぐらいたっぷり農薬を使う作物はないと言っておられました。麦はあまり農薬を使わなくても育つとか)細菌が増えないように塩素のたっぷり入った水を飲み、排気ガスに汚染された空気を吸い、有毒な化学物質を日々吐きつづける家に住み、玄関に入ったら消臭剤、「ゴキブリが出たらシューっとひと吹き」なんて宣伝されている殺虫剤、あれもこれも有害な化学物質なのではないですか。休日にゴルフに行けば、除草剤で整備されたグリーン。除草剤ってアメリカ軍がベトナム戦争で使って奇形児を生み出した枯葉剤とは違うのでしょうか。そして、そんな危険性を世の中に真っ先に訴えているのがアトピーの子や喘息の子そしてリウマチ患者なのではないでしょうか。
    50年前に道を間違えてしまったのだとしたら、この辺で大胆な修正が必要なのではないでしょうか。
    レイチェル・カーソンは「沈黙の春」の中で、こう言っています。
    “ふつうの人間なら生命を受けたそのはじめのはじめから、化学薬品という荷物をあずかって出発し、年ごとにふえるその重荷を一生背負って歩くことになる。中略 最後には、いったいどうなるのか、まだだれもわからない。”
    と言っています。

    でも松本先生は人間には免疫という素晴らしい働きが備わっていて、体内に入ってきた異物を身体の外に出そうとする働きがある。IgE という免疫の働きが増えるのを待てばいい。免疫を抑制してはいけないとおっしゃいます。

    私の場合も松本先生の理論の通り、アトピーが出てやがて痛みが軽くなり、自分がリウマチだったことも忘れてしまうほどの状態になり、本当に有難いことと、感謝に堪えません。
    経過 その2(ストレス)
    ほとんど痛みが無くなってから、半年位経ったある日、懐かしさを感じるほどのかすかな痛みを右手首に感じました。
    私は夫の会社の経理も手伝っていたのですが、リーマンショックの後景気が悪くなり、仕事をしたのに売掛の回収ができない物件が3件も立て続けに起きました。しかもその内の一件は私の友人の紹介での仕事でした。
    痛みがぶり返したのは、その直後です。
    先生のお話の中に、治りが遅い人の話をよく聞いてみると大きなストレスを抱えている場合がよくある。ストレスは治療の大きな妨げであるとおっしゃられていたのを思い出しました。
    でも、精神的には最初の時よりずっと楽でした。
    身をもって、治るのが分かっていたからです。
    オーストラリアにいる娘が出産をオーストラリアでするから来てほしいと言われた時は、私の手首で赤ちゃんを世話することが出来るだろうかと不安はありました。

    2009年9月に孫が生まれ、その感動と喜びで痛みはどこかへ飛んで行ってしまったようです。今では5キロに余る孫を抱くことができる幸せを日々かみしめています。

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