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    「心と体(リウマチさん、ありがとう)」 安江幸代 56歳

    H21年9月

     なぜ私はリウマチになったのだろう。
    素朴な疑問を抱えたまま発症から18年、松本医院のHPにたどり着きその間の様々な出来事を通して病気と心の関係が少しでも伝えられたら嬉しいなと思います。
    リウマチ完治の道しるべを示された松本医師の理論に沿って実際に私自身が体験したものであり、喜びの記録であることを証明するものです。

     丁度昭和から平成に年号が変わる頃、体に異変が起きました。手首と右膝の関節部分が真っ赤に腫れ痛くて全く身動きがとれない状態になり病院へ行くことすらできませんでした。幸いに腫れは2~3日で跡形もなく引いてきたので近くの整形外科へ診察に行きました。関節周囲炎でしょうから経過を見ましょう、と診断されて湿布薬だけ処方されました。その後腫れは全く出ずに忘れて過ごしていました。

     平成2年に甲状腺機能低下症になり、チラージンS錠を服用しました。そして翌3年になった春の穏やかな朝、突然に体がこわばって今まで体験した事のない異様さに驚きました。直ぐに内科で診察を受けたところ、血液検査の結果からしてもリウマチに間違いないと判断されました。病名関節リウマチ、そう告げられました。原因不明の難病であること、一生薬漬けで治らない病気であること、体の変形や寝たきりになるかもしれないことなど足早にこの病気の特徴を話してくださいました。その話に私はどうやらへらへらして聞いているように映ったようで、医師は丁度来ておられたリウマチ患者を呼んで私の目の前に座らせました。そして、将来あなたはこのようになりますよと、その人を指さしはっきりと云われました。服で隠せない指はほとんどが変形し、松葉杖を支えにかろうじて歩いておられる状態でした。
    私は医師がどんなに絶望的な言葉と態度に出ても、何故だかあまり気持ちが動きませんでした。一生治らないと宣告されているのに、悲しいとかどうしようとかの不安がなかったということです。むしろ私がリウマチという病気を選んでいる、自分が望んで決めてきたことならば逃れられる術などあるはずがない、ただ受け容れていこう、そしてそこから動くであろう自分の思いを必死で見ていこう、私が選んだことに間違いはないのだからと頭では解釈していました。
    私は「心を見る」という学びに出会って2年目になっていましたので、病気になったから人生真っ暗でもないし、リウマチが悪いわけでもなく自分が出した思いが形となって返ってきた、ということは少しは理解できていました。ただ、理屈では分かっていても心で分かるというところにまでは至らなくて、その後の私の反省ノートには(出てくる思いをそのままノートに書いていく作業)何度もリウマチへの妬み恨みと責任転嫁する心癖の強さを見せつけられるのでした。

    なぜあなたは生まれてきたのか、なぜ死んでいくのか、死んだら何処へ行くのか、肉ではなく(五感で感じる世界のこと)意識が(見えない世界)本当のあなたですよと、私は教えてもらっていました。誰しもが一度や二度はこんな疑問をもったと思います。幼い頃や究極の困難に遭遇した時、心が解放されたいと絶叫するとき人はふと立ち止まる時間を用意しています。
    宗教ではなく、ただ自分の心を見つめることによって本来の姿、お母さんの温もりに帰っていこう、真実を知るのはあなたの頭ではなく心ですよと何度も同じことを伝えて貰いました。とてつもない大きな何かによって私は今生かされている、長い間の心の苦しみが雪解けのように少しずつ解放されました。そして本当の自分に帰りたい、帰っていこうとする思いは確かに自分の心の中にあると確認したのでした。

     シオゾール2錠、ロキソニン1錠を半年飲み続けたある日、体中に蕁麻疹のようなものが出てきました。どうせ治らないといいながら出される薬に疑問を感じていたし痛みはなかったのでそのことをきっかけにリウマチ薬を止めました。

     その後3~4年は痛みがあっても病院へは行かず痛み止めだけを服用してなんとか過ごしました。幼い子を育てながら仕事を抱えていたこの時期は一番痛みに耐えた時期で奥歯が欠けるくらい食いしばっていました。しかし心を見れば楽になるという他力の根っこは強く壮絶な痛みに耐え続けるにも限界がきていました。
    左股関節の炎症で立てなくなり診察を受けました。骨頭付近が炎症を起こし軟骨の消失と共に骨の変形が始まっていました。レントゲンを見た医師が一言「こんなになるまで痛み止めだけで過ごしてきたのですか?」と私の顔を不思議そうに見ました。
    1本目のステロイド(プレドニン)注射をしました。あっという間に痛みがなくなり初めてのステロイド体験は恐怖と快感でした。
    シオゾール2錠とロキソニンの処方に戻りました。それからというもの痛くなればステロイド注射をしました。麻薬と同じですね、1年後には両方の肩軟骨の変形が始まっていると云われステロイドを4本くらいしました。いくら抗リウマチ薬を飲みステロイド注射をしても益々変形は進みました。何の解決をも見出せなくて、この頃になって一生治らないと云われたことが重くのしかかってきました。痛みに対しては我慢強くなったような気がします。できる限り薬は飲みたくなかったので再びリウマチ薬を止めたのは平成9年の頃、夏の暑い盛りでまだ自転車にもかろうじて乗れていたし、歩くのも左足がびっこながら動いていた頃でした。

     平成14年、手首、指、足の指、右肘、股関節と、どこまでも体の変形は止まりませんでした。もう自転車にも乗れずにそれは思い出になっていました。左股関節が痛みで歩けなくなり夜も眠れなくなり病院を変えて受診しました。台所に立つことも包丁を握ることもできなくなりました。トイレが大変で何度も粗相をして夫に後片付けをして貰う日が多くなってきました。毎日少しずつ変形していく箇所を眺めながらの日々が続きました。
    肩軟骨消失変形、右肘軟骨消失変形、左手首軟骨減少、右足首炎症、左股関節軟骨消失変形、右股関節炎症、体中の関節が悲鳴を上げていました。私の病状はどんどん悪化するばかりで手立てはありませんでした。治らないとされる難病に医者はお手上げ状態でした。だから手術という話を頻繁にするようになりました。
    いずれは人工ばかりの手術でロボットのようになるのだろうか。医者は私にそう宣告しているような感じでした。何があっても起こっても受け容れていこうと自分で決めたからにはそうするしかない。しかし実際はそうと分かっていても絶叫する思いに蓋をすることは出来ず叫び声を書いていくしかない日々を過ごしました。しかしそうやって書いていくと苦しんでいること可哀想だと自分を慰めてきたことが実は間違いであったということに気付いて心は落ち着くのでした。そしてリウマチという病気を受け容れていくのではなくて、リウマチを通して見えてくる自分の思いを受け容れていこうと思うように変化してきました。思いは正直です。罵詈雑言は山のようにどこまでも高く積まれていきました。それでも自分の恨み妬みを見ていくことは嬉しかったのです。微かなりとも自分が愛しくて許していこうと思えたからです。
    多分「心を見る」学びをしていなければこの時期自殺をしていたかもしれません。このまま醜い姿で生き恥をさらすことの苦しさ、息子のとの葛藤のさなかにも感じていた、死んでしまいたいという本音。こんな私がいるのに周りで笑う人がいる、おぞましいと笑っているのだろうか。常に自分が自分に脅しをかけてくる、死んでしまえの声。狂いそうなほどの心の叫びを淡々と書いていくこととそれに伴って「お母さんの反省」が日課となっていました。

     身体障害者手帳を貰いシオゾールに変わってリマチル2錠を服用しました。医師からはステロイド剤を勧められましたが、ステロイドでは痛みは多少取れても骨の変形を早めるだけだということに気付いたので断わりました。洋服を選ぶようにこの薬で駄目なら次はこれにしたら?という医者に委ねることはできませんでした。でも我慢できない痛みにはすがるしかなく両極端な思いがありました。そして数えてみればステロイド注射は10本以上にもなっていました。もう無茶苦茶でした。元の体に戻れない、戻りようもないと思っていたので怖いというより痛みから解放される方を選択していました。
    そんな中でも時々治ったのかなと思うほど体が動いて痛みもなく快適な状態の時があったので学びの友との旅を楽しみました。しかしそれはつかぬ間のことでここ数年は外出も出来なくなり障害者手帳も更新しました。家では寝たきり状態、季節を感じるのも家の中になりました。由一の楽しみは春に窓から見える満開の桜です。綺麗なその風景を眺めてはかごの鳥状態で暮らしました。

    18年のリウマチ歴清算のとき、平成21年4月23日のこと。
    左股関節の悪化で人工関節の手術しかないと思い、手術は納得できる病院でしたいと考えていました。PCで検索しながら何気なく目に留まったのが漢方医 松本医院のHPでした。何かに突き動かされるように自然に開いた瞬間、涙がドド~っと溢れてきました。自分でも訳が分からずとにかく後から後から出てくる涙をぬぐいながら松本医師の論文を読み始めました。
    免疫は押さえてはいけないこと。IGg抗体からIGe抗体へクラススイッチすること。サプレッサーT細胞の存在とメカニズムなど、どれもが口々に自然に帰るんだよと話しかけてきます。医者が作り出す医原病のことは最も納得できました。なんせ今の私がそのものだったからです。しかし医者だけが悪いのでしょうか。違います、一番はやはり私自身の心に原因があるのです。そしてリウマチと共に生きることを選びました。そう捉える方が自然でした。
    ステロイド注射で狂わされた60兆もの肉体細胞達はその仕事をこなしました。そして私の体が作り出したステロイドにも文句も言わず休むことなく働き続けてくれていました。私と思っている器は細胞の塊にしか過ぎないということを強く感じました。しかも自分が働いてこの体を維持しているのではなく肉体細胞達なのだということを忘れてはならないと思いました。

    松本理論は実に単純で何かしら爽やかなのです。本物は単純だということは心を見るなかで知っていましたから、医学用語がさっぱり分からずとも伝わってくるのです。それを私の心はキャッチしました。医学の真実がここにあった、私はこの時点で松本理論を信じ「リウマチは治った」と強く思いました。
    特に強烈に心に残ったカ所があります。
    「精神的葛藤(ストレス)に対して知らぬ間に副腎皮質を刺激してそれに耐えるためにステロイドホルモンを出して免疫を抑え、リバウンドが生じリウマチになった」
    なぜ私はリウマチになったのか、勿論自分が決めてきたことなのです。間違いはありません。しかしリウマチでなくとも他の病気でもよかったんじゃないかと疑問でした。だから病気は癌を除いて二種類しかない、病名などはなんでもいいという的確な答えはとても心地よかったです。松本理論は医学博士でなくても頭脳明晰でなくても普通のおばちゃんの私でもその真髄にかすかなりとも触れさせてもらえる場でした。肉体生命の単純さ、単純なゆえに間違ったことを許さない厳しさ、心の世界と一緒でした。上から物を落とせば下に落ちる、免疫を下げれば病気は治らない、真実は誰でも分かる簡単なことだったのです。

    学びを知る前の私は子供の問題、離婚、仕事、異性とのトラブルなど本当に多くのストレスをかけ続けていました。特に子供の問題では何度も鬱になりいつ死んでもおかしくない状態の日々を過ごしていました。子供はただ大いに遊び、楽しいことを見つけては仲間とはしゃいでいただけなのに、私は世間の常識に縛られ子供までも型にはめようとしていました。本来持ち合わせた子供の純粋な心は知識ばかりを詰め込んだ頭でっかちな考えに従うはずもなく、私はたったひとりの子供すらほとんど放棄していた状態でした。その子供のおかげで学びに出会いストレスから解放され心が緩んでリバウンドしリウマチになったのでした。
    あの当時の私を支えてくれていたのが実は自らが作り出しているステロイドだったのだと松本理論で教えてもらいました。ストレスに負けないように耐えてくれていたのです。私が元気になるのを一番に待ってくれていました。苦しかったあの頃、死のうと思っていたあの頃を必死で支えてくれていたのでした。私は信じがたい真実を知りただただ号泣でした。
    昼に読み始めた松本理論は私の中でエネルギーとして取り込まれ夕方まで一滴の水も飲まずに読み続けました。

    平成21年4月28日、雪解けの日はついにやってきました。心の真実と医療の真実、私は両方の切符を持って主人と姉との3人で松本医院を訪れました。松本医師からどうしてもっと早く私のHPにたどり着けなかったのですかと問われ、とっさに「堪忍してや」という思いが出てきました。早く来ればそこまでひどくならなかったのに、という松本医師の優しさが十分すぎるほど溢れて伝わってきます。
    いいんです。少しの違いもなく、これでいいのです。今思えばリウマチの長い時間は私にとってかけがえのない反省の日々でした。肘が曲がり指も曲がり軟骨という軟骨が減少しても私は心を見るために生かされ続けました。心の闇は根深く本当の自分から遠い私です。でも母は何もかもを承知で生んでくださいました。そのことに感謝することもなく自分の道を切り開いたのは私自身だ、などと豪語してきた愚か者です。育てて頂いたことなど一度も思い起こすことなくましてや生んで頂いたことへの感謝などしたことがありませんでした。私の人生は私が決める、親なんか必要ないと、ほんとうに思い上がりもいいところです。
    おかあさん、ごめんなさい。

    治療の最初は何もかも初めてのことばかりで戸惑いました。
    朝起きたら煎じ器で煎じ薬を作ります。出来上がるチャイムが鳴るまでの時間、私は丹田呼吸をして瞑想をします。目を閉じれば自分の世界だけが広がっています。肉を持ちながら心は肉の世界にいない楽しい至福のひと時です。1番煎じはややトロ~っとした感じで甘くて飲みやすかったです。2番煎は100ccにして飲みました。3番煎じまで飲むと一日中トイレに忙しいことが分かったので私は2番煎じまでにしました。お通じがよくなり、こんなに食ったのかいと思うほどみんな出ていくので爽快でした。痩せなくても体が引き締まる可能性大です。
    お灸は熱いです。あっちちを連発しながら体中の力を込めて耐えるので最初は肩が凝りました。しかし痛みへの効果は絶大でいつしか魅了されていました。お灸の良さが納得できると同時に体も熱に慣れてくるようで、手伝って貰った姉や友人との会話が笑いで盛り沢山になりました。毎日2時間くらいかけてお灸を楽しみました。
    お風呂は1時間ゆっくりと入ります。ベットでは寝返りもままならないのですが、お風呂の中では水を得た魚のよう?なったつもりで自由にあっちこっち向きを変えられました。溺れないように気をつけながら。
    鍼は痛いです。痛いから思い出もたっぷりあります。受診するたびに有里さん(早田先生)にしていただくのですが、生まれて初めてする鍼の痛さには驚きました。突き刺してるやん、と思うほどに痛くてしかも寒くて震え痛くて怯え、踏んだり蹴ったりでした。しかし当然です、リウマチが長くなれば体は硬いです。固いところに鍼をさせばどうなるか、痛い結果があるのみです。初診で有里さんから「カチカチや」と褒められました。いや嘘を言いました、本当は呆れられていたかもなのです。鍼をする度にギャギャ喚き倒して余りに喧しいのと、体が硬くて鍼を置きにくかったのだと私は勝手に推測しました。ある日、いつものように鍼が怖いので有里さんの名を思いっきり「はりさん」と呼んでしまい大笑いになりました。しかし反対にいえばそれくらい鍼の効果は絶大であったということです。帰りの私は別人のように例の階段をホイサッサと降りられたのです。それにお灸は効き目があるようでたびたび「真っ赤や」と嬉しいことを言って貰えました。お灸一つ鍼1本で周りが真っ赤になる体質の私は大阪流に云えばセコク儲かっているのです。しかも免疫は上がる一方、嬉しくてうれしくて絶好調なのです。
    ついでに免疫が上がってくるとどうなるのか。医者じゃないから詳細は全部省いて、イコール病気が治り元気になるのですが、おまけが付いてきます。運動もしないで歩くことも出来ない私ですが、お灸をした後の体内の燃焼率はなんと31歳やねんて、体脂肪計が数字でそういいます。まぁ見た目は年相応だけど体は若者のように燃えているなんて本人にしか分からない事実です。お灸で年齢差25歳の燃焼率を確保できることを知ったのも漢方医学に触れられた特権です。
    お灸に関してもう一つ歯医者事件がありました。奥歯を抜いたその日にいつものようにお灸をしたら夜になって血が出てきて止まらなくなりました。朝に抜歯して昼食も夕食も食べて何ともなかったのに今頃からじゃ歯医者は開いていないし困りました。次の日まで我慢できる量の出血ではなかったのでとても怖かったです。仕方なく救急車を呼び処置してもらって血は治まりましたが、恐るべしお灸の力に感激してしまいました。免疫を上げるということは血流が半端じゃなく物凄く良くなるということも学びました。

    煎じ薬や1時間の漢方風呂など免疫を上げる療法を始めて最初に異変を感じたのは口の中でした。治療から二日目のことです。やたら粘々して何度も唾をはきたくなるのです。鏡で口の中を見たら舌は真っ白で粘々して不気味でした。それは2、3日程で治りましたが、次にびっくりしたのは五日目のこと、漢方風呂に入っているとき耳の中からドロ~っとしたものが出てくるのです。慌てて耳の中に手を入れてみましたが耳の中はいつものように乾いていました。それはたった一度だけでおしまいでした。
    初診から2週間目にリウマチ特有のこわばりがありました。いよいよお出ましのリバウンドでしょうか。一日中だるくて何をするのも億劫になりました。元々家事等は再婚した夫がせっせとしてくれていましたので、私はただ体が要求するままに大半を寝て過ごしても何の問題も起きませんでした。リウマチ患者をおさぼり病だと批判する人がいて一時期傷つきましたが、それはとっくの昔のことで今じゃここぞとばかりに妻の役もついでにさぼっている次第です。
    この頃の症状としては、左足首の腫れと頭皮に出来ているおできのようなものが痒く(アトピーになるのかな)なりました。かつてはリンデロンを塗っていましたのでリバウンドしています。免疫は覚えている、という論文の件がありますがまさにその通りです。痒いのは治ってゆく過程なのでブドウ球菌にやられないよう気をつけながら掻いて楽しみました。今にして思えば冬になると皮膚がカサカサして衣服を脱ぐとどっさり皮膚の粉が雪のように舞っていましたので、私はリウマチとアトピーを合わせもっていたということです。だから抗リウマチ剤のリマチルだけですんだのかもしれません。担当医からも検査結果はたいしたことないのに症状がどうしてこんなに重いのかなといつも首をかしげておられました。今なら担当医にお礼として云って差し上げます。ステロイド注射による医原病ですよ、とね。

    耳鳴りがひどくなってきたのはこわばりが消え体全体にこそこそと痒くなってきた頃からです。お灸をしている時と漢方風呂に入っている時が多いように思います。特にお灸の時はまるで耳の中に蝉を飼っているように煩く感じました。免疫がバンバン上がってきている証拠だと思いました。耳の中のヘルペスは回復に向かっている兆しの表れでもありましたので私はドンドン出ておいでと思っていました。
    ヘルペス治療にベルクスロンが処方されました。この薬がどのように効くのか興味があったのでお尋ねしたら松本先生は看護婦の泰子さんを(横山さんのこと)呼んでお絵描きしながら教えてくださいました。医学知らずの私には面白い絵くらいにしか分からないけど、要は新しく増殖するヘルペスウイルスをやっつけるということに頷けました。ヘルペスは神経細胞に入り込んで見つからないように増殖するらしくゴキブリさんに似ているなぁ~と何となく思いました。私はゴキブリさんのがめつい生命力が何処か好きなのです。多分私に似ているからでしょう。

    5月8日2回目の受診後最低1回の鍼を2回にしょうと思い近所の鍼灸医へ受診しました。鍼は流派があると聞いていました。鍼の形からして違うのですね、とにかく免疫を上げる為にするのだから何でもいいのかと思いました。しかしその後1度も行かなくなりました。男性の方だったので着るものに気を遣うのが煩わしいと感じたからです。なんせ有里さんの前ではほとんどスッポンポンに近い下着状態でしてもらっているので楽過ぎて困ったものです。

    6月に入ると体のだるさと難聴の右耳から聞こえてくる蝉風味はその後も相変わらず続きましたが、リウマチ特有の痛みはあまりありませんでした。毎年梅雨の季節になると気圧の変化で手首右足首や右肘、股関節などすでに変形してしまっている個所すら痛みを感じ横になっていることが多かったですが、今は朝早くに目覚め動きたいと思うようになってきました。鍼でも一番痛いところを聞かれるのですが返答に困り、考えてはエ~ットえ~っとを連発していました。
    嬉しかったのは早くも変形した箇所が本来の姿に戻ろうとしていたことです。特に右足指の変形でバネ指になっていたところや地面から浮いて不格好だった指達は少しずつですが真っ直ぐに伸びていこうとしているのが感じられます。いつものように靴下を穿かせてくれる夫が伸びようとしている指を見て驚きながらさすってくれました。私も上からしか自分の指を眺められないけど嬉しいなぁ~と思いました。

    7月暑さとともにものすごく楽になってきました。左足首の腫れは多少残るもののびっこながらサッサと歩けました。朝起きも洗濯や掃除が普通に出来ます。家事もいそいそ体が動きます。サボっていたお掃除のホコリが目につきだしました。初診から3ヶ月しか経っていないけど、こんなんでいいのかなと思うくらい楽な生活になりました。
    ある日突然夜中に痒くて目が覚めました。お待ちかねのアトピーです。思い切りボリボリ掻きました。明日が楽しみです。きっと湿疹だらけになっていることだと思いました。しかし目が覚めて見た私の皮膚には跡形もなくて、あんなに掻いたのにあれは夢か幻か。
    耳鳴りは相変わらず続きました。時々右まぶたの上がピクピクしましたがヘルペスだと聞いていたのでせっせとお灸をして免疫を上げました。リウマチでの痛みはほとんど意識することすらなくなりました。ステロイド注射で歪められたものが元に戻っていこうとしているのが私の肉そのものにも現れてきました。ステロイドで薄くなってしまった手や足の皮膚は年齢相応のしわが出来てきました。しわなんか見せても喜ばないでしょうけど私は人に見せたいくらい嬉しいものでした。

    初診から4回目の血液検査結果が出ました。
    「凄い、みんな消えてしまった」と松本先生のひとこと。やっと煎じ薬やお灸や鍼などが松本理論の波に乗ってきたところだったので半信半疑で聞きました。RF定数だけが27と(正常は20まで)やや高めながら他はほとんどが正常値範囲になってきました。嬉しかったというより誰かのと間違えたのではと疑うほどの数値でした。それに松本先生が私の学び「意識の流れ」を信じないとあかんかな~ぁなどとポツっと云ってくださったのには更にびっくり仰天でした。私は血液結果より松本先生の一言に感動しました。飛び上るほど嬉しくてね、診察室だというのも忘れ主人の手をとって喜びました。うさぎ追いしかの山、ついついこのメロディーが口から出てきます。
    松本先生の診察は毎回楽しいものです。10年前くらいの体験談を見ると熱血で怒鳴るイメージがありますが、今は枯れて?いや失礼、現在はいつもリラックスされていて私は思わず友人に話すような口調になってしまい、時々ここまで踏み込んでいいのかなと思うほど何でも言えました。先生は私の素人質問が面白いようで丁寧に答えてくださいました。しかし大抵は世間話と心の勉強討論会を開催しているという感じのもので、患者のTPOにもちゃんと合わせてくださる機転の利く方でした。
    私が面白いと思ったのは「治してあげるよ、自分の免疫が治すんだよ、怖い病気などはない」などの名言で励ましてくださり握手してくださいますが、私の心からは「次にアメリカで会いましょう」としか出てこないのです。それと診察すれば誰でも机の上に書いてある文言の紙を見られると思いますが、私はいつもその紙が受験生のようで可笑しくて仕方ないのです。こんな少年のようなかっこいい医者にはお目にかかりたくてもなかなか見つからないものです。

    8月、5回目の血液検査結果。少し高めだったRF数値が正常値に入ってきました。血沈は15と高めでした。体がだるかったのでリウマチの名残りはまだまだあるなと感じられました。油断大敵火がぼうぼう、なんだかそんな思いが心にありました。松本先生のHPは週一の感じで読み込みました。リバウンドしても乗り越えられるよう一番肝心な根っこの理論だけを繰り返し読みました。枝葉となる体験談もドンドン読みました。激しいリバウンドを乗り越える様は想像を超えています。しかもそれぞれが様々な症状と向かい合っていくしか治るすべはないという険しい道です。皆さん痛々しくも必死で耐えておられるのが文面でも十分過ぎる程分かり私も頑張ろうという気になるのでした。
    ところが私には勝負どころだと考えていたリバウンドらしき大物が今のところ皆無と云っていいほどないのです。あっちこっちに現れる小物たちは辛いと感じる間もなくあっという間に通り過ぎていくし何だか心構えだけが空回りしています。クラススイッチは一体どの場面でなったのかが解明できないほど急テンポに治っていきました。呆れるほど楽チンな状態になって松本理論の証拠人がまた一人増えるのでした。

    9月、6回目の血液検査結果。血沈12、ぎりぎり正常値に近くなってきました。血沈は風邪を引いても上がるから全体を眺めて数値を見なさいよ、と看護婦の泰子さんに励まされました。学びのセミナーから帰ってきた翌日の採血では体がとても疲れていましたが、こんな状態でも血液結果が良かったなら本当にリウマチが治ってきていると判断できると私は考えていました。
    単純ヘルペスの数値は76.4(正常値2.0未満)で依然として高いですがこれで順調のようです。ベルクスロンを飲んだ時とそうでない時の耳鳴り状態をお伝えしたかったのですが、量れない分この判断は大変難しいです。水痘帯状ヘルペスは42.7あったものが17.1(正常値2.0未満)までなくなりました。
    毎日の生活が快適です。痛みでしかめっ面が当たり前でしたがこめかみのしわもすっかり伸びた感じです。時々近くのスーパーや散歩に出かけられるようになり夢のようです。後遺症が残った箇所はこれからリハビリで少しずつ良くなっていくと確信しています。なぜなら元に戻らないのを悲観した私に有里さんから「駄目だと思い込んでいる」と指摘されハッと目が覚めました。心を見るための大事な体です。最初から投げ出してどうするの、あなたの思いが作ったんでしょ、そんな温かな思いが響いてきます。この言葉を忘れずにいたいと思います。本当にありがとうございました。
    これからは2週間ごとの診察と漢方浴2日に1度に変更されました。こうしてリウマチ治療というよりはヘルペス治療になってきているように思います。

    さて中間報告が長くなりましたが、松本先生には本当に感謝しかありません。その証拠にすでに私は松本医院の看板を背中にかけながら生活していると思っています。例えば私の周りに集まってくる人がガンと遺伝子病以外の病気なら必ずHPを教えてあげるでしょうし、リウマチは治ります、怖い病気はないよと教えてくださった先生への感謝の気持ちは完治した人からまた次の人へと伝わっていくと私は思っています。

    私の流れの中で出会うべきして出会いました。決して偶然ではなく必然的にたどり着きました。その流れはごくごく自然でした。疑いもなく松本理論を信じ委ねていくことはとても喜びでした。医学が無知だからよかったのかもしれません。でもこの理論を信じられたのは私自身が心から真実だと思ったからです。それ以外にありません。
    ある日治療について私が先生の言う通りにしますと云うと「あなたは私を信じているのじゃなく自分を信じているんや」と簡単に見破られてしまったエピソードがありました。その通りです、だから常に自己選択自己責任なのです。決して人のせいにはできません。そういう基礎になる部分を学びの中で十分に教えて貰ってから必然的に松本理論に出会いました。そしてそれは私の意識の流れの今なのだということがとても嬉しいです。

    リウマチさん、私の苦しみを病気という形で表現してくれたのがあなたでした。そのあなたに向かって唾を吐き続けてきました。私を苦しめるものは敵でした。だから闘ってきたのです。でもそれは筋違い、間違いだと気付かされました。私は自分に向って唾を吐いてきただけのことでした。
    どれだけ苦しいと思いをぶつけてもあなたから流れてくるエネルギーは穏やかで優しいものでした。消えてなくなることも承知で私が気付くのを待ってくれていました。心と体は一つで繋がっていることの実践もさせていただきました。おかしいかも知れませんが今こうして卒業証書を片手だけでも持つことができたことを一番にあなたにお知らせしたい心境なのです。とても嬉しいです、リウマチさんありがとうございました。

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