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「潰瘍性大腸炎手記」

匿名希望 28歳 2012年9月11日

潰瘍性大腸炎―IVHだけを2ヶ月続けて―

はじめに

 私は病院に大腸カメラの検査結果を聞きにいったところ、潰瘍性大腸炎を患っていると診断され、栄養状態も悪く、即日入院をすることになりました。 その間、入院先の病院の治療方針ではなく、松本医院の治療方針に従って治療を続けました。その結果、現在では、潰瘍性大腸炎を克服しつつあります。病院に反旗を翻し、主治医と戦い、看護師さんたちに(内心)呆れられ続けながらも、私はかつての健康を取り戻すために、松本医院の治療方針を選びました。まさに闘病ではなく、闘病院でした。

 今回の入院中母が私の体温や便の状態、先生とのやり取りなどを克明に記録してくれていました。松本先生の論文や他の方の手記で、潰瘍性大腸炎の克服についての理論は説明されていますので、私は克服の過程の一部をお伝えしたいと思います。克服の過程に個人差があるとはいえ、また気休めにしかならないとしても、一人の患者からすると、他の人はどんなペースで体調の変化があったのだろうということにも大きな関心があったのは事実です。それに一人の患者としては、現時点においては(将来において医学の勉強をするという選択はともかく)、克服の理論を深く述べることよりも、克服の過程をできる限り正確に伝える方が、松本先生や今後現れうる松本医学の後継者・伝道者のお仕事のお役に立てると思うからです。

潰瘍性大腸炎発覚の経緯 2012年5月1日~11日

 

 2012年5月に入ってから、下腹部に違和感を感じました。そして日ごとに下痢の回数が増え、下血も生じてきていました。しかし今思えば、今まで生きてきた28年間大病をしたことがなく、少し休めば治まると思い、ゴールデンウィークの間は家で寝て過ごすなどしただけで、愚かにも病院で見てもらおうという判断をできずにいました。(もっとも、松本医院で実施されている真実の医療を知った現在となっては、松本医院以外の病院にかかることが愚かなことだったといえるのかもしれません。)

 しかし、それでもお腹の痛みは治まらず、母の勧めもあり、はじめは職場の近くの町医者にかかりました。そこでは、触診と問診だけで、整腸剤等を処方されただけでした。けれども、それでもやっぱり治まらず、5月10日に地元の大病院に行くことになりました。外来診察で今後の主治医となるK先生に症状を話したところ、大腸に問題がありそうであるとの判断から、翌11日に大腸カメラを実施することとなりました。そして大腸の検査をしたところ、中等症で左側大腸炎型の潰瘍性大腸炎の疑いがあり、この病気は不治の病であり、一生付き合っていかなければならないと宣告されました。

 カメラの前に飲む下剤のまずさ、カメラを大腸に入れる際の痛み、連日に及ぶ下痢・下血による栄養不足(このときはまだこの認識はありませんでしたが)等で衰弱しきっている中、K先生は潰瘍性大腸炎のパンフレットを見せながら、淡々と説明をしていました。大腸カメラをしても、すぐには検査結果を出せないらしく、後日23日に検査結果を聞きに行くことになりました。その後、アサコールとミヤBMを処方していただきました。そしてその日は、歩くと大腸に衝撃が生じるため、非常にゆっくりと歩いて帰った記憶があります。

松本医院通院 5月19日

   

 そのような状態の中、私は5月19日に初めて松本医院を訪れました。

 私が松本医院を訪れるきっかけは、次のようなものです。母がインターネット上で見つけてきたいくつかの潰瘍性大腸炎に関するサイトの中のひとつに松本医院のサイトがあり、その中から母親がこの病院がよさそうと軽く一読して、ほぼ直感的に母親自身が選んだというものです。このとき私の頭はぼーっとしており、体もだるく、K先生に半ば死の宣告のようなものを受けていたため、自分から積極的に何か方法はないかと探すことはほとんどできずにいました。そのような私の様子を見て、母は「本当に治す気があるのか」と私を叱りました。そのときは、母の気持ちがありがたくもあり、疎ましくもありました。私も母ほどではないにせよ、病気に関する本を読むなどして情報収集をしていましたし、そのときは無自覚でしたが、積極的にあれこれと動けるほど心と体に余裕がありませんでした。それでも、何とか母が調べていたいくつかのサイトの中からなぜか松本医院のサイトを選び出しました。疲れた頭でも先生の御主張がすんなりと頭に入ってくるほど、自然のことと感じたのでしょうか。

 

 5月19日、朝5時30分ごろ、38.5度ほどの熱が出る中、母の運転する車で自宅を出発しました。車の中ではぐったりしていました。高槻には思ったより早く着いたので、持参したiPadで松本医院のホームページを見て、松本先生の御主張を最低限でも理解しようと努めました。熱でぼーっとしていましたが、IgG・IgE・クラススイッチ・医原病・化学物質などの最低限必要と思われるキーワードを頭に叩き込みました。本来であれば、じっくり理解してから、通院したほうがよかったと思うのですが、このときの体調ではそれはできませんでした。今後みなさんが通院される際はしっかりとホームページに目を通されたほうがいいと思います。

 

 そして9時が近づき、松本医院へ向かいました。すでに待合室には何人かの方が見えていました。松本先生はどんな方なのだろうと思いながら、ドキドキして待っていました。まず初めに看護師さんに松本先生の理論を簡単にわかりやすく説明していただきました。この説明で自分の理解の正しさが確認できたので、ほっとしました。この日は高熱があったので、それ以外松本医院の中のことは細かくは記憶に残っていません。このときはかなりしんどかったのだと、後になって思いました。

 松本医院では、松本先生の他、看護師さん、受付の方や鍼灸師さん、そして眼科の検査をしてくれる先生などたくさんの方がいらっしゃいますが、みなさん優しく、患者さんにとって何が一番大切であるのか、どう接すればよいのかを心得ていらっしゃるようにお見受けしました。それはつまり松本先生が常々ご批判される医薬業界の金儲け主義に基づかない医療の実践が基礎として心の中にあるからだと思いました。

 

 名前を呼ばれ、診察室に入り、先生と初めて対面しました。先生からは潰瘍性大腸炎を初めとする膠原病や医薬業界の実態に関して色々聞くことができました。また私は大学卒業後から5,6年ほど司法試験の受験勉強をしていたので、そのストレスから自分の身を守るため副腎皮質からステロイドホルモンを出して、免疫が抑制され、潰瘍性大腸炎の症状が出たのだろうと教えてくださいました。

 また現在私が司法業界とは異なるところではありますが、2012年の4月に就職を果たし、ゴールデンウィークに入り、心がリラックスしたために免疫の働きが正常化しだしたのだろうというお話もありました。そして大病院で処方されたアサコールは、遺伝子を傷つけて免疫の働きを妨げるから、すぐに飲むのをやめなさいと説明していただきました。そして松本医院から帰ってすぐにアサコールは廃棄しました。この日は高熱があったため、先生のお話を理解するのに必死でした。ただ、先生とのお話をする中で、この先生なら間違いなく潰瘍性大腸炎を治せると思いました。(先生は、先生が治すのではなく、私や私の免疫が治すのだとおっしゃるのでしょうが、先生が治せるのだと思うくらい先生のお話に安心感、信頼があったという趣旨です)なお、先生とのお話の中で印象に残っているのは、「君はかわいい顔をしている」というご発言でした。そんなことを言われたのは初めてでしたので、びっくりしました。

 

 その後鍼灸治療をしていただきました。始めての鍼灸で緊張しましたが、鍼灸師さんも優しく、とてもリラックスできました。またこのとき鍼灸師さんから、家庭でお灸をするときの注意点等を教えていただきました。これ以降入院期間を除き、毎日母にお灸をしてもらいました。そして漢方薬等を処方してもらい、帰途に着きました。帰りも車の中ではぐったりとしていました。

 家に帰り、熱を計ると39.5度もありました。今思えば、かなりの強行軍でしたが、入院前に松本先生に直接お会いすることができてよかったと思います。

 後になって思えば、この日から生じた高熱は、最初のリバウンドだったと思います。

 

大病院入院に至るまで 5月20日~22日

 

 松本医院から帰った日はさっそく漢方を煎じて飲みました。またお灸もしました。翌日も体はだるく、39.5度もの熱がありました。一日ベッドの上で休んでいました。

 21日朝になると、熱は37.5度くらいに落ち着いていたので、出社しました。このときもステロイドホルモンを出して、体が免疫を抑えようとしていたのだと思います。しかし、出社すると次第にしんどくなり、2時間もしないうちに早退しました。38度ほどに熱があがっていました。22日も38~39度台から熱は下がらず、仕事を休みひたすら痛みと苦しさに耐えていました。昼間家には私しかおらず、孤独感もあってか、しんどさはこのときがピークだったと思います。食事もおかゆでさえ喉を通らず、ほとんど栄養を摂る事ができない状態でした。5月に入って体重が7kgも落ちてしまっていました。この日母は松本先生に電話をし、明日検査結果を聞きに行くことと私の様子を伝え、今後のアドバイスをいただいていたようです。「おそらく入院することになるから、IVHだけをしてもらうように」とのことでした。夜中も母が私の部屋に布団を持ってきて、付き添ってくれました。

 そして翌朝早くに家を出て、大腸カメラの検査結果を聞きに行きました。このときでさえ、入院になると考えていなかったのが不思議です。今まで病院の世話になったことはなかったので、自分が入院するということを想像できなかったからだと思います。

診察・入院決定 5月23日

 診察室には、私と両親の3人で入りました。K先生に高熱があること等を告げました。また先日の大腸カメラの写真を見せていただきました。赤くなっている部分が見えました。このときも高熱があったため、じっくりと写真を見たわけではないので、自分のことなのに、自分のことでないような感じもありました。そして検査の日確かに先生は中等症の左側大腸炎型であるとおっしゃったのに、この日は重症の全大腸炎型だとおっしゃいました。程度判断は、大腸の様子だけでなされるわけではないようなので、高熱が出ていたことや血液検査の結果などを総合して判断されたのだと思います。そして栄養不足でもあるということで、点滴で栄養を補う必要があるといわれました。ステロイドや免疫抑制剤は、やめてほしいといいました。そうしたら、G-CAP(顆粒球除去療法)をやりましょうと先生に言われ、その場では断りきれず、とりあえず了解しました。先生の診察の後は、レントゲンやCTスキャンなどの検査をさせられました。 このときの高熱はリバウンドで、治癒の兆候だったと思うのですが、K先生、あるいは医薬業界や資本主義からすれば、それは体調が悪くなっており、体にとってよくない状態であるから、金儲けのチャンスだったのでしょう。

 

 しばらくしてK先生が病室にお見えになりました。この時私は意を決して先生にG-CAPはやりたくありませんと伝えました。副作用や体への影響が怖いからだと言いました。先生は、潰瘍性大腸炎はほうっておくと、大腸がんになるとか、大腸摘出になるとか、人工肛門になるとか色々おっしゃいましたが、頑なに拒みました。

 潰瘍性大腸炎を初めとする膠原病は、タンパク質と結びついた化学物質をIgGが殺そうとして戦い続けることによって起こります。そのため、化学物質を体内に入れないですむIVHこそが潰瘍性大腸炎などの膠原病を入院で治療する場合には、一番の治療法だと松本先生に教えていただいたからです。

 本当はついでにアサコールも断りたかったのですが、先生に私の言い分を聞いてもらうために、こちらも譲歩したことを示す意味で、処方してもらうことにしました。もちろん後ですべて廃棄するつもりでした。その結果、治療方法はアサコール、ミヤBMとIVHだけになりました。しかし、1週間様子を見て状況が改善しなければ、他の治療法をしましょうといわれました。そして、アサコールは看護師の目を盗んで、廃棄していました。病院内で捨てるとばれるおそれがあるので、ティッシュにくるんで隠しておき、家族に持ち帰ってもらっていました。こうして私の入院初日は幕を下ろしました。

入院生活 1・2週目 5月24日~6月3日ころ

 

 入院の翌日、体温は36度に落ち着いていました。その後大型の機械に寝かせられ、首の右側の静脈に点滴の管をさしてもらいました。管という異物を通したことで、38度に熱が再びあがりました。5月24日から、70日ほどの間、私は絶食生活となりました。

 

 リバウンドで熱が出ている間は、苦しいから食事をしたいと思う余裕もなく、食事ができないことにストレスはありませんでした。最初のリバウンドは入院して1週間弱で終わりを迎えました。28日ころには熱も36度台に下がり、体もだいぶ楽になったからです。下痢の回数も4回程度になっていたと思います。結果、入院時のK先生のご希望だった、1週間しても状態が悪ければ追加の治療をするということは叶えられませんでした。そして来週大腸カメラをして状態がよければ食事を開始しましょうということになりました。この1週間は1週間で体調がよくなるだろうかとずっと不安でした。しかし、同時に今なんだかんだで生きているのだということに感謝もしました。

 熱が下がった後も咳をするだけでも左わき腹が痛く、空腹感をほとんど感じませんでした。しかしそれから2週間ほどするといつの間にかそのような痛みを感じることもなくなっていました。このころには、下痢は一日一回水様のものがでるだけでした。

 

 またこのころから折を見て私は母や父とともに、私の今までの人生を振り返っていました。私の人生に何がおき、私はそれについて何を感じ、何を思ったのか、健康なときなら恥ずかしくて口にもしないようなことを赤裸々に語りました。もっとも私が潰瘍性大腸炎になったのは昨日今日の話ではなく、病名はないものの潜在的に体の中に数年前から存在していたのでしょうから、「健康なとき」というのはあってないようなものかもしれませんが。そこで私は、私にかかっていたストレスというのは松本先生にお話した司法試験のことだけではなかったのだと改めて気づかされました。すなわち私の両親は私が学生のころに離婚しており、無意識のうちに精神的にとても傷ついていたこと、あるいは母と私の関係など親子の問題も含まれている、あるいはそちらが主であり、司法試験のストレスというのはそれから派生した従であった(従のストレスも小さいものではありませんが)といえることに気づかされました。思えば、私は母の顔色を気にして生きてきた部分が多々あります。母への依存と母からの独立のバランスをうまくとることができずに今日に至ったのかもしれません。

 今後今回の経験を通じて母や家族とのいい距離感がつかめればいいなと思っています。 両親は離婚していたのですが、私を心配してたびたび父は見舞いに来てくれていたのでした。

入院生活 3週目 6月4日~10日

 

 入院生活の3週目は、もっとも印象に残る1週間でした。6月4日は、食事を開始するかどうか判断するための大腸カメラを実施する日でした。しかし松本先生から大腸カメラの是非についてお聞きしていなかったので、直前ですが、朝一番に先生の携帯電話に電話をかけ、先生のご見解をお聞きしました。当時の私の状態で大腸カメラをすることは、大腸への負担が大きすぎるから避けたほうがいいとのことでした。

 

 そして私は、見舞いに来てくれていた父を通じてK先生に、大腸カメラをやめたいとの意向をお伝えしました。父から聞いたところによると、その話を聞いた途端先生の顔色が変わったそうです。強制退院させるとまで口にしたそうです。その様子に私も父も腰が引けてしまいました。松本先生の理論を信じると決めたはずなのに、私の意志はゆらいでしまいました。しかし、そのとき母と電話をし、今まで松本先生の理論を信じてきたのだから、これからも信じていこうという話になりました。母との会話がなかったら、私はK先生に屈していたと思います。母に感謝しています。

 

 その後、病室に先生が現れ、急に6月4日その日の夜から食事(きざみ食)を開始するとおっしゃいました。大腸カメラをしていないのに食事を開始するということは、外見上食事を開始しても大丈夫そうだが、念のためにカメラをしようとしていただけなのだと思ってしまいました。IVH以外の治療を勧められなくて済んだと単純に喜んでしまいました。しかし、食事を開始したことの病院側の意図はそうではありませんでした。

 

 翌5日も食事が3回でました。その結果、37度台の熱が出ました下痢の回数も4回に増えました。IVHだけで治療して、化学物質を体内に入れないという方針に反してしまったからです。それにもかかわらず、K先生は明日IVHの管を抜くとおっしゃいました。落ち着いていた病状が再び悪化した私を見て、心配になった母は松本先生に電話で相談しました。そうしたら、松本先生は母に対し、「IVHを3ヶ月してもらいなさい」「自分の息子を守らないとあかん」とおっしゃったそうです。

 

 母が体を震わせながら、「K先生に言うわ」と決意を固くしている姿を見て、感謝と同時に、「母は強し」だと感じました。そして夜8時ころ、母が看護師にK先生を呼んでもらうように言いました。食事をしたことで私の容態が悪化したことについて説明を求めるためでした。しかし、先生はあさってまでカンファレンスの予定であり、しばらく顔を出せないとのことでした。それでも、母が必死に「病人と会議とどっちが大事なんですか」などと言い、先生が病室に来ることを求めました。そしてようやく看護師から状況を聞いた先生が、病室にやってきました。母はK先生に対しても、「IVHを抜かないでくださいとお願いしました。しかし、先生は「便も安定してきたので、食事に切り替えたいと思います」と聞き入れてくれませんでした。母はなおも、「きざみ食にして下痢の回数も増えてきているから、また栄養状態が悪くなるかもしれないのに、どうしてIVHを抜くのですか」といいましたが、「どっちが医療に詳しいのですか、もう何をしても同じです。」と聞く耳を持ってくれませんでした。母は「ずっとご飯を食べていなかったのに、いきなりきざみ食ではなくて、最初は重湯からじゃないのですか」と疑問をぶつけました。先生は「何を食べてもどうせ一緒です。この病気は治らないからです」と答えにならない答えをいいました。それでも母は「とにかくIVHを抜かないでください」と訴え続けました。すると母と先生の言い合いの声が大きくなっていたために、看護師がカンファレンスルームで話をしましょうといいました。そして病院の十数人の消化器内科の医師を束ねる消化器内科の部長、主治医、看護師とともにカンファレンスルームで話し合いが始まりました。K先生は、「息子さんも呼びますか」とおっしゃいましたが、母は「熱があるし、これ以上ストレスをかけたくないので、いいです」と断りました。カンファレンスルームで、K先生は「私は東京で開かれる潰瘍性大腸炎の学会にも出席しています。IVHをしている間は、食べていないので症状は落ち着きますが、食事を始めたら、必ずもとに戻ります。お母さんがIVHを続けてほしいとおっしゃっても、薬も飲まず、その間に腸管破裂が起こってしまったら、息子さん死にますよ」と助言とも脅しとも言える言葉を口にしたそうです。部長は「お母さんは、一体いつまでIVHをやりたいのですか」と尋ねたそうです。母は3ヶ月といいたかったが、とてもいえる状況ではなく、1ヶ月と答えたそうです。それを聞いて先生は二人とも「どれだけやっても一緒です」と医学会の常識に反する母の発言に絶句したそうです。次にK先生は「どういう理由で治療を拒否しているのですか」と尋ねたそうです。これに対し、母は「色々とHPや本などで免疫は抑えるとよくないと書かれていました。今まで自分の副腎皮質ホルモンから作られるステロイドで免疫を抑制していたから症状が抑えられていたのが、GWでリラックスして免疫が少し高まったから症状が出てきたと思うんです。そこでまた免疫を薬で抑制したら、一時的に症状も良くなると思うのですが一時的にではなく完治させたいのです。」と答えたそうです。これについては、部長もK先生も「この病気は治ることはありません。インターネットの情報は正しいとは限らないから、厚生労働省の潰瘍性大腸炎のホームページを見てください」とおっしゃったそうです。

 そしてK先生も部長も今何も治療をしなかったら、腸管破裂して、息子さん死にますよと何度も助言ないし脅しをしたそうです。そのような先生方の態度に母は激怒しながら「先生はお子さんいないのですか。母親に向かって子供死にますよって、そんな言い方…、他に言い方あるのじゃないですか」といったそうです。先生は「僕らも子供を持っているから、何とか子供を助けたいと思っているのです。お母さんが子供のことを思ってやっていることが子供のためになっていないこともあるんですよ」といったそうです。母は「とにかくIVHをやってください。どんなことがあっても、先生を訴えたりしませんから」と震えながら口にしたそうです。そうして何とかかんとかIVHをとりあえず1週間続けることが決まりました。その後母は、病院に希望を通すには私たちはクレーマーになるしかないのだろうなと世の中の不条理に泣きながら帰っていったようです。

 

 その夜消灯時間を1時間も過ぎたころ、K先生が寝ている私を起こして、「お母さんはIVHを続けたいそうですが、それはあなたも同じですか」「何もしなかったら腸管破裂が起きたり、大腸がんになったりしますよ」「人工肛門になるかもしれませんよ」とねぼけている私に悪魔がささやくように言いました。

 言い知れぬ恐怖とともに、寝込みを襲うやり方に怒りを覚えながら、なんとかIVHを続けたい、ということを伝え、その夜は先生に退散願いました。仮に厚生労働省の指針に従った治療をしたいとK先生が考えていたとしても、なぜあのような言い方をしたのでしょうか。医者は真実(松本先生からすれば間違っている真実)を語るならば、脅しのような言い方でもいいと思っているのでしょうか。優しくしてほしいとはいいませんが、ものの言い方くらいあるのではないかと思います。

 

 それから数日後の8日、朝から看護師長、先生、母と私とで再度話し合いの場が設けられました。先生は「医療は確率の問題でもあり、複数の治療法の中から確立の高い治療法を取るべきです。あなたたちの治療法は確率があまりにも低く、他の治療法と比べるまでもなくお勧めできません」とおっしゃいました。「確率が低くても、患者が望む治療に協力してもらえませんか」とお願いしました。しかし「それはできません」とすげなく断られてしまいました。クレーマー的に私たちは再度IVHを続けたい旨だけ告げ、話し合いは平行線に終わりました。このとき以降も先生はことあるごとに私や母に対し、他の治療法をするように迫り続けました。そのため病室の近くで足音がすると、先生が来て何か言われるのではないかとびくびくする状態が続いていました。このときお腹が軽くしめつけられる感じがしました。けれども私は自分の免疫の力を信じると決めたので、絶対に譲らないぞとの決意もしていました。  この1週間も便は水様性で、日に2~4回ほどでした。下血もありませんでした。

入院生活 4~6週目 6月11日~7月1日

 

 このころ、K先生も呆れてしまったのか、IVHを抜くことには触れず、他の治療を勧めるだけでした。食事をやめ、しばらくすると熱は36度台に下がっていきました。便の状態はあいかわらず水様がほとんどでしたが、たまに泥状のときもありました。そしてお腹がうにうに動く感じがありました。まだまだ全快とはほど遠いのですが、少しずつ体調が回復していっているのを感じていました。

 しばらくして6月15日からイントラリピットという大豆油からできた栄養点滴も2日に1回のペースで始まりました。この原料である大豆にも化学物質が含まれているため、この点滴を始めると、37.3度ほどの熱がでました。便の回数も6回ほどに増えました。しかしこの状態も1週間ほどしておさまり、体温も便の回数も落ち着いていきました。6月も中旬に入ると、お腹の違和感もだいぶ楽になってきました。

 更に6月23日から松本先生に処方していただいたアミノバクト(アルブミンの値が低かったため)を飲み始めたところ、37度を少し超える熱がでました。これも大豆由来だから、その大豆に含まれる化学物質に免疫が反応しているから熱がでるということのようです。

 

 この間にもK先生との間で小さな事件がありました。職場に提出する診断書に「標準的治療をしていれば既に就労が可能である可能性が高いが、標準的治療を拒否しているため治療に時間を要しています」と記載されていました。しかしこれでは、職場に対し、私が標準的治療をせずにあえて病気の回復を遅らせて仕事をさぼろうとしているとの印象を与えかねないと思いました。そこで私は看護師長を通じて先生に対し、書き直しを求めました。最終的には、先生には診断書を書き直していただけましたが、すっきりしない一件でした。ただそのやり取りの終わりにはもう書き直してもらえないなら、喧嘩することなくそれを受け入れようという気持ちになりました。喧嘩すると疲れるだけなので、状況を受け入れて共存していくしかないという気持ちでした。

入院生活 7~10週目 7月2日~7月28日

 

 7月2日から、エレンタールを飲む生活が始まりました。IVHだけの生活を6月までずっと続けていましたが、先生や病院側が繰り返し他の治療法を求め続けてきたこと、私自身の体がいくつかのリバウンドを乗り越え、小康状態に入り、落ち着いていることなどから家族と相談の上、開始を決定しました。エレンタールは本来1日1袋を通常の2倍に薄めるところからはじめ、徐々に1日3袋を飲めるようにしていくという処方が想定されているにもかかわらず、先生も看護師も何も告げず、いきなり初日から1日3袋を飲んでくださいといわれました。詳しくはわからないのですが、浸透圧の関係でいきなり通常の濃さで1日3袋を飲むと体に負担がかかるらしく、私は初日から3袋に挑戦したため、気持ち悪くなってしまいました。先生としては私たちの望む治療方針が気に入らないのかもしれませんが、本当に患者のことを思っているならば雑な処方はしてほしくなかったです。

 

 エレンタールにも大豆が成分として含まれており、また熱が出ました。エレンタールを飲み始めたころ、そしてエレンタールの摂取量を増やしたころは特に熱が出て、37.5度を超えることもありました。先生は熱が出た場合、感染症のおそれがあるから、IVHを抜きましょうとおっしゃっていたので、生命線であるIVHが不必要に抜かれるのではないかとびくびくしていました。現に一度抜かれそうになったのですが、少し待ってほしいと告げ、翌日には熱が落ち着いたので、抜かれることなく、IVH生活を続けることができました。

 

 ちなみに、このころ手足にぽつぽつと小さな湿疹ができては消えて、消えてはできてを繰り返していました。クラススイッチがゆっくりと始まったのだと喜びました。けれども、8月末現在全身にアトピーが出るなどの大きな変化はまだ起きておらず、自身が出したステロイドホルモンが多かったのかなぁと思っています。

 

 7月17日、病院としてはこのままIVHだけの治療を続けることはできないといわれました。そこで、3つの案が示されました。1つめは、大腸カメラをして様子を見てまだ炎症があるようならば、他の治療を受ける。2つめは、エレンタールの数を増やして退院、3つめは、博打の要素が強いが重湯を始めるというものでした。1つめは、以前に大腸カメラを断ったこと、そして治りかけの大腸に傷がつくのをさけたいということから却下しました。3つめも、食事のペースは、以前いきなりきざみ食を出されたことで、信頼が失われていたので却下しました。そこでエレンタールを1日6袋まで増量し、それで生活できることを確認のうえ、退院するという選択肢を選びました。

 

 そこで、7月19日からエレンタールを4袋にし、2,3日で1袋ずつ増やし、7月24日には6袋を飲めるようになりました。1日6袋も飲むのは、ほぼ1日中飲んでいるようなもので、他に漢方薬と薬を飲むときの水も飲んでいたので、お腹はたぷたぷでした。エレンタールを飲み始めたときは、1日3袋で限界だと思っていましたが、他の治療をされるくらいならエレンタールを飲んでいたほうがましだと思い、飲みきることができました。  そうこうして7月24日、2ヶ月近く私を支えてくれたIVHとのお別れの日がやってきました。点滴台なしでの生活の快適さに感動しました。また寝るときも管を気にせずに寝られるので、とても快適でした。

 

 そして7月27日、66日間にも及ぶ入院生活がとうとう終わりました。

自宅療養期間 7月29日~8月12日

 

 退院の翌日さっそく松本医院へと向かいました。松本先生には病院でのK先生の態度などを含め色々とご報告しました。このときは熱もなく意識もしっかりしていたので、病院の雰囲気も先生のご様子もしっかりと目に焼き付けることができました。先生とお話ができて、改めて2ヶ月病院でIVHだけで粘り続けてきてよかったのだと思いました。

 

 退院後しばらくはエレンタール6袋を飲みながら、軽めのものから食事を始めました。重湯、三分粥、五分粥、…など徐々に普通の食事に近づけていきました。そして自宅療養期間の最後のあたりにはエレンタールを1日1,2袋だけ飲むようになりました。そのころには、脂っこいものや刺激の強いもの以外のものなら、ほとんどのものをたべるようになっていました。松本先生は何を食べてもいいとおっしゃっていましたが、念のために少しずついろんな食べ物を試すようにしています。

 

 また松本医院へ行った翌日の8月8日、数ヶ月ぶりに下痢ではなく、固まった便がでました。

そして社会復帰へ 8月13日~

 

 とうとう8月13日から出社しました。3ヶ月近くもの間、職場を留守にしていたにもかかわらず、みなさんが温かく迎えてくれました。私の見えないところで上司や先輩などたくさんの方が色々とフォローしてくれていたのだということを改めて知りました。これから時間はかかるかもしれませんが、みなさんに恩返しができればと思っています。仕事を始めて数週間が経ちましたが、特に不調もなく過ごしています。

最後に

 

 以上が私の闘病もとい闘病院の記録と克服の途中経過です。血液検査の結果はまだまだ正常値ではなく、これからも漢方や鍼灸で私の免疫の力を刺激して、潰瘍性大腸炎を克服したいと思います。

 本当に病気を克服するには、松本先生がいつもおっしゃっているように、病院や医者任せにせず、自分でどのような治療法を選ぶのかを決定していく必要があると思います。私自身松本医院のホームページを読んだり、松本先生以外の免疫の権威とされている方の本を読んだり、胃腸に関する本を読んだりしながら、次第に松本先生の理論が最もシンプルでわかりやすく、この理論に沿って治療していこうとの思いを強くしてきました。自分自身の心を見つめて、欲を(できる限り)捨て去り、心の平穏を保つことが大事だと思います。私は入院生活を経て、私たち人間は自然の中の一部に過ぎないということ、私たちが持っている欲求のほとんどは支配者層あるいは搾取する側の人たちが彼らの私腹を肥やすために作られたものにすぎず、そのような欲求に左右されて生きるのは疲れるということを感じました。世の中のあらゆる分野で、知識や力を持っている一部の人々が他の人々からいかにお金をとるかが考えられていて、それで世の中が回っているのだと感じました。世の中の見え方がだいぶ変わりました。

 けれども大半の人々は、自分の無知に付け込まれているということを知らない(私もかつては医薬業界についてそうだったし、それ以外の分野についてはまだまだ無知だと思います)ということを潰瘍性大腸炎になって学びました。私は2ヶ月以上もの間入院していたため、たくさんの患者さんを見てきたからです。いろんな方がいらっしゃいましたが、先生にぺこぺこと頭を下げるという一点においては、みなさん共通していました。その中には、アトピーの方も糖尿病の方も、私と同じ潰瘍性大腸炎あるいはクローン病の方もいらっしゃいました。みなさん松本医院に行けば、不必要に苦しめられずに健康になれるのにという思いがあると同時に、その方たちにどのように松本医院を紹介すればよいのか考えている間に、退院されてしまい歯がゆい思いを持っていました。

 またK先生をはじめ多くの医師たちが彼らの治療のあり方についてどう思っているのか、疑問でなりません。私たちがごね続けたとはいえ、IVHによる治療を許し続けたのはなぜなのでしょうか。真実に気づいている(感づいている)が、立場上言えないのか、思考停止していて、何も感じないのか、はたまた別の理由なのかわかりませんが、不思議でなりません。

 私もさまざまな偶然が重なり、松本先生と出会い、真実の一端に触れることができました。松本先生本当にありがとうございました。そしてこれからももうしばらくはよろしくお願いいたします。潰瘍性大腸炎は正しい治療を選べば、治ると思います。みなさんも是非松本医院のホームページを熟読し、松本先生を訪ねてみてください。

 P.S.私の入院中の体調の変化等を別表にして添付いたします。ご参考にしていただければ幸いです。

                                   

 以上



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 アレルギーは医学部の教科書には、現代の医学では治らないと書かれています。何故、一介の開業医である私は治すことができるのに他のお偉い方々は治らないとおっしゃるのでしょうか?いずれにしても、私が如何に大声をあげてアトピ-やリウマチが治るといっても変人扱いされるだけでしょうが、ここに証拠をお見せしましょう。ここで紹介される患者さんの手記は、巷に出ているノンフィクションの本よりも遙に感動的であり、今アトピ-や喘息やリウマチと戦いつつある患者さんの皆さんに大きな励ましとなるでしょう。このホームページを読めば、体の中で起こっている自然の正しい免疫反応を抑制してはいけないのに、見せかけだけを良くするために抑制して生じた薬害の後始末をすることが私の主な仕事となり、完治するのはアトピ-やリウマチだけではなく、同時に他のアレルギ-(アレルギー性鼻炎やアレルギー性気管支喘息やアレルギー性結膜炎)が全て消失してしまうのもお分かりになるでしょう。

 患者さんが経験された厳しい症状などについて医学的な意味付けが赤字でコメントしているものもありますから、私のアトピ-やリウマチの治療法がさらによく理解できると思います。何回も読み返してください。この記録から、ステロイド・抗アレルギー剤・抗ヒスタミン剤・抗炎症剤の免疫抑制剤が一時的に症状を良くしても、結局は見せかけの治療薬に過ぎないことが理解され、とりわけステロイドの乱用によりステロイド皮膚症になった人が、いかにステロイドから脱却し、最後はアトピーやリウマチを治しきってしまうこともお分かりになるでしょう。 

アトピー・リウマチをはじめ、全てのアレルギー・膠原病の治療において、一切ステロイドを使いません。

 それは、ステロイドをはじめとする免疫抑制剤を使っている限り、アトピー(アレルギー)やリウマチなどの膠原病はもとより、全ての病気を治すことができないからです。また、私は何も漢方で治しているのではなくて、正しくは漢方を使って免疫を上げて、患者の免疫を高め続けることによって、自分でクラススイッチをしたり免疫寛容を起こさせたりする手助けをしているだけなのです。漢方が治したり、私が治したりしているのでもなく、あくまでもあらゆる病気は自分の免疫で治しているのです。

漢方治療中(治療中でなくても)、市販の風邪薬は飲まないでください。

 市販で売られている、もしくは他医院で処方された風邪薬の中には、抗ヒスタミン剤や、抗アレルギー剤が含まれています。とりわけ、小児用の風邪薬の中には、必ず、ぺリアクチンという抗ヒスタミン剤が入っています。私のアトピーや花粉症の患者さんの治療が、なぜか長引いてしまうことが時にありました。この方々は風邪を引くたびに、このぺリアクチンの入った市販の薬を服用していた患者さんたちであることがわかりました。これらの風邪薬は、鼻水や鼻づまりなどの見かけの症状を取りながら、同時に、本来のアレルギーを抑制しています。風邪が治ったあと、必ずリバウンドが繰り返され、アトピーをはじめとするアレルギーやリウマチの完治が遅れますので、服用しないでください。

松本医院の「なぜ」

病気とは何でしょうか?

 病気とは、人体に不必要な異物が侵入してきたときにそれを排除しようとする正しい免疫の働きに見られる症状のことを病気だといえば一番わかりやすいでしょう。となれば、病気とは否定的に捉えるのではなくて肯定的に捉えるべきものではないでしょうか?つまり否定されるべきものは侵入してくる異物であり、病気そのものではないのです。言い換えると異物が人体に侵入しない限り、免疫の働きは行使される必要はないのです。この世から人体に必要な5大栄養素と水と空気以外の異物が存在しなければ、病気は絶対に起こらないのです。言い換えると、病気を起こす原因は人体に不必要な異物なのです。

 それでは異物には何があるでしょうか?2種類しかありません。ひとつは、病原細菌であり、ウイルスであります。これらはワクチンと抗生物質で征服されてしまいました。つまり、間単に殺すことができるようになったのです。このために人類の寿命は飛躍的に延びました。ふたつめは何でしょうか?まさに近代化学が作った化学物質であります。この化学物質が人体に侵入したときに、それを排除する免疫の働きの症状がアレルギーとなるのです。

アレルギーとは何でしょうか?

 アレルギーとは環境汚染物質を体内から排除する働きであります。何故アレルギーは増えたのでしょう?環境を汚染する農薬をはじめとする化学物質が極めて多く作り出されるようになったからです。実はリウマチもアレルギーのⅢ型であります。

膠原病とは何でしょうか?

 膠原病はアレルギーと同様、環境汚染物質という同じ敵を排除しようとしています。ただ、膠原病はIgG抗体を用い、アレルギーはIgE抗体を用います。つまり武器を変えて戦っているだけの違いなのです。

アレルギー・膠原病はなぜ治るのでしょうか?

 敵は無限に存在する化学物質や環境汚染物質であり、味方はアレルギーの場合は有限であるIgE抗体であり、リウマチの場合はIgG抗体やリウマチ関連抗体であります。排除しても無限に繰り返し入ってくる化学物質を永遠に排除することは不可能であり、有限は無限に絶対に勝つことはできないからです。ところが現代の医学は異物を排除しようとする免疫の働きを一時的に抑制するだけですから、IgE抗体やIgG抗体やリウマチ関連抗体が再び作り出されいたちごっこになり永遠に戦いが終わらないのです。従って免疫の働きを一切抑制せずにアレルギーの症状を楽にしてあげるだけで最後はIgE抗体やIgG抗体やリウマチ関連抗体が作られなくなるのです。これを発見したのは世界で私が初めてなのであります。これを自然後天的免疫寛容と名付けたのです。

リウマチの患者さんの家族の皆様に

 他医院で治療をされていない初期のリウマチは、「風邪よりも治すのが簡単である」と言っても過言ではありません。しかし、私の患者さんは当院に来られる前に間違った現代医学の免疫を抑制する治療を受けて来られる方がほとんどです。従って、私の治療を始めると、間違って受けてきた治療の度合いに応じて、多かれ少なかれ必ずリバウンドが出現し、それに伴い、痛みが増強します。大量のステロイドを注射されたり飲まされてきた人、長期に渡って他の病院でリウマチ治療を受けてきた人は、激しい痛みのために、自分自身の身の回りの世話が不可能になる事態もしばしば遭遇します。

 そのために、私の治療を受け続けるには、絶対に家族の協力が必要となります。ところが、遠方から来られる方や、お年寄りの方の中には、リウマチ治療の困難さを全く理解せずに、すぐにリウマチが治ると思って気軽に一人で受診される方がいます。実際の治療の困難さや、具体的な私の治療法、何より私自身を知ってもらうためにも、初診時には必ず家族の方と一緒に来て下さい。また、患者さんはもちろん、家族の方も私のホームページに記載されている理論とその証拠である手記を繰り返し読み、私の理論と治療法を理解してから来て下さい。

 また漢方薬だけでは絶対にリウマチを治すことは出来ないのです。他の免疫を上げる鍼・お灸・漢方風呂などを総動員して初めて徐々に免疫は回復し、上昇し、最後はクラススイッチし、自然後天的免疫寛容となるのです。

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