
「喘息手記」
匿名希望 46歳 2012年5月26日
いつもお世話になっています。 手記を送らせていただきますのでよろしくお願いいたします。 書き溜めていた手記のデータを一度吹っ飛ばしてしまい、思い出しながら再度書き起こしたので文脈がおかしくなっているところがありましたらすみません…まだまだ書ききれてない部分もあるように思いますが、時間も経っていますので一旦お送りさせていただきます。
平成21年3月22日。早朝午前6時前。 その早朝のJRの駅のホームに私は一人立っていました。三月の早朝はまだ寒さがそこここに残る早春の駅のホームは、休日早朝とあって人気もなく、 おまけに長い付き合いの喘息がいつものように喉元でわずかなノイズをたててるとあって、薄暗い一層寒々しく感じられました。吸入でごまかしながらそろそろとホームへの階段を降りて行ったのを思い出します。
朝早くに駅で電車を待っていたのは、そのわずか三日前にネットで見つけたばかりの大阪にある松本医院に向かうためでした。 三日前、と書きましたが、隣町くらいだったならばおそらく見つけたその足でサンダル履きのまま松本医院に駆けつけたことでしょう。
ネットで見つけた翌日は祝日で病院はお休みで、続けて週末でしたが、 休日だし春休み期間中で病院もさぞかし混んでいるだろうから翌週に、 という考えはどこにもありませんでした。 とにかく一刻も早くここに行かなくてはならない、そのくらい当時の喘息の状態には切羽詰ったものがあり、まさに藁をもつかむ思いでした。
問題は地理的な距離でした。北海道や沖縄から通われる方に比べれば比較的近い部類になりますが、なんと言っても当時はトイレに行くのさえ青息吐息の状態でしたから、大阪まで行って帰れる自信がまるでありませんでした。 しかしこのまま座していても喘息が良くなる事がないのは誰より私自身が分かっている事でしたので迷いは全くありませんでした。 どうせ倒れるなら大阪に向かう途中で、と腹は決まっていました。 前夜は早めに就寝したものの喘息の調子が良くないこともあって結局熟睡には程遠く、朝の2時くらいに目が覚めてしまい、そのまままんじりともせず朝を向かえ、駅に着く頃はまだ空が白みかけたばかりでした。 こうして、私は、喉にはかすかな喘鳴、目の下にクマ、手には万一途中で動けなくなった時のことを考え、「私は喘息です。発作で苦しいので救急車を呼んでください。」というメモ、そして胸には最後の期待を持って、始発の電車に乗り込んだのでした。
私の喘息は3才からのおつきあいです。発症当時の状況を私自身は全く覚えてないのですが、両親によると、大阪万博に私を連れ出したところ、帰ってから声が出なくなったのが始まりだそうです。
物心ついた頃から、特に秋口でしたが、年に数回発作をおこし、その度に車で40分かかる日赤に駆け込んでは太い注射器で注射をしてもらうのがひとつの風景になっていました。
小学校3、4年の時には、同じ喘息を患うお友達の紹介で片道二時間半もかかる隣り県の病院のふた月ごとに通い、5、6種類のお薬を飲んだこともありますが、あまりに遠方で通うのが大変だった事と、それほど症状に変化が見られなかったため、2、3年で通うのを止めてしまいました。 引越しをして環境が変わったためか、小学校高学年でひどい発作を起こし、 初めて喘息で一週間ほど入院しました。
神経質なくらい生活に気をつけていたのでそれほどひどい発作は滅多におこしませんでしたが、中学以降も吸入器は手放せず、ちょっと疲れたり、急に冷え込んだりすると発作を起こしては病院に駆け込むのを繰り返していました。 その頃には喘息は身体の病というだけでなく、立派な心理的コンプレックスになっていた事もあり、自分としても何とか喘息を克服したいと、サプリは言うに及ばず、断食・気功・健康寝具まで、効くと言われたものはありとあらゆるものを試しましたが、喘息と縁を切るには至りませんでした。逆に人の倍は健康に気を配っているのに改善が見られない状況に却って落ち込んだりしていましたが、それでも発作の出ていない時は健常な方と同じ生活ができるし、 また手持ちの吸入でほとんどの発作は収まっていましたので、 吸入でだましだまし生活する日々が続きました。
30代半ば頃から、秋口になると数回点滴を受けないと季節を乗り越えられなくなり、俄かに危機感が強くなりましたが病院の先生に相談してもステロイドを勧められるだけで他にこれと言った打開策も見当たらず、今後このまま悪くなっていったらと思うと暗澹たる気持ちになっていました。
この頃、ステロイド吸入が一般的な治療となった事もあって、お医者さんには「(喘息に使うステロイドは)アトピーに使うステロイドに比べたら量が非常に少ないから大丈夫」と、事ある事にステロイド吸入を勧められましたが、「量が少なくてすむのは皮膚と違って粘膜のほうがより過敏だからではないのか?」という疑念が拭えず、また使って完治するならまだしも半永久的に使い続けないといけないという説明にも却って薬への依存が増すだけではないのかという気がして納得がいかず、「ステロイドを使って有期で良くなるなら使います」と拒否してはいやな顔をされていました。
そんななか、松本医院に伺う前年になりますが、近隣環境が変わった事などから、夜眠れなくなってしまい、夜間、特に夕飯を食べた後に発作がおさまらなくなる日が続き、その年の秋から冬にかけてわずか三ヵ月ほどの間に二十回ほども点滴に通うことになったのです。救急車でも二、三度運ばれました。 喘息の点滴はこれを行えば即座に発作が収まる反面、身体への負担も大きく、頻繁にするようなものでないことはお医者さんに言われるまでもなく承知していましたが、如何せん点滴をする以外に発作を収める術がないのですからどうしようもありませんでした。
あまりのつらさに点滴をしなくて済むのならとそれまでいくら勧められても頑として拒否し続けていたステロイド吸入にも手を出し、セレベント、アドエアとお薬自体はどんどん容量の大きいものに移行し続けましたが、発作は収まるどころかますます酷くなる一方で、ステロイドで喉の過敏性が増したためか、しまいには咳が止まらなくなってしまいました。 この頃になると、二時間おきくらいに吸入を使っても収まらないことが多く、メプチンエアーやホクナリンの他に、病院にあるような吸入器を利用したベネトリンの吸入も家で行っていましたが、メプチンを使うと、一瞬息が出来なくなり、その後になんとか一息つけるというような状態になってしまっていました。
ベネトリンも使うと却って一瞬息苦しさが倍加することがあり、吸入をするために呼吸を整える、という本当に本末転倒な状況に、もし吸入が効かなくなったら、という言葉では言い表す事ができないような不安は募るばかりでした。 当時の生活は朝目が覚めると体を起こす前にメプチンを使い、少し呼吸が楽になったところで、普通に歩けばわずか二、三歩のベネトリンの機器のあるところまでソロソロと布団から這い出して行くのですが、そこまでたどり着くのがまず決死の作業でした。お風呂はもちろん入れませんし、数メートル先のトイレに行くのも命がけ、頻脈ぎみの早い動悸がいつも収まらず、少しでも無理をすると不整脈が出るような有様でした。
病院で処方されるお薬はどんどん強いものになり、吸入以外に飲むステロイドを処方いただいたのですが、ある夜、何をしても発作が収まらず、思い余ってそのお薬を飲んだところ、それまでに経験した事のないものすごい息苦しさに襲われ、すぐさま病院に駆け込んだのですが、点滴が効いて来るまでのあの時の苦しさとショックは未だに思い出すとぞっとします。
お薬で却って症状が悪くなったにもかかわらず、次の診察の際にその事を先生に話したところ、「そんな話は聞いたことがない」等々、効かないのがおかしいと言わんばかりで、逆に怒られる始末で、あまりの理不尽に返す言葉もありませんでした。
ことここに至って、このまま西洋医学に任せていたのでは廃人になってしまう、という私の強い懸念は確信に変わりました。他に治療法はないのか。
この息苦しさから解放されるのならば何でもやるつもりで、以降、息苦しさを押し、パソコンにもたれかかるようにして、毎日のようにインターネットで情報を漁る日が続きました。 が、これと言った情報がすぐに見つかるわけもなく、あまりの息苦しさと希望のなさに目の前が霞むような気がしたのも一度や二度ではありません。
松本医院を見つけたのはそんな落胆と焦燥だけが日増しに大きくなっていく日が一週間くらい続いた、三月の下旬でした。
喘息もアトピーも免疫の反応異常だというのは斬新な解釈であるにもかかわらず、喘息と寝起きを共にしてきた私にはすとんと腑に落ちるところがありました。 HPに書かれてあることにいちいち頷きながら読み終わった時にはここしかないと確信していました。
そして神は私を見捨てなかったのです。
冒頭書きましたように何とか電車に乗り込んだものの道中はやはり苦しく、 特に岡山駅での乗り換えはまさに至難の業、でした。 瀬戸大橋線の電車から吐き出された大勢の人に押されるようにしてフラフラと歩く様子は多分、端から見れば、幽霊のようだったに違いありません。
なんとか新幹線ホームに辿りついた時はそれこそ気を失いそうでしたが、 座席に腰を降ろして後はもう着いたら大阪だ、と思った時にやっと大阪まで行けるかもしれない、と思えたのでした。 新大阪駅で新快速に乗り換え、高槻に降り立った時は、誇張ではなく、おそらく登山家がエベレスト登頂を目前にしたような感慨深いさがありました。
駅でミスタードーナツがあるほうを聞けば大丈夫と思っていたのですが、 なんとミスタードーナツが両出口側にあるということで、どっちに向かえばいいのか少し迷ってしまい、また郵便局を目印にしていたため少し遠回りしてしまいましたが、何とかミスタードーナツを見つけ、そこまでたどり着いて愕然としました。松本医院は二階にあったのです。 普通の人には何でもない階段が、この時の私には目の前に高くそびえる壁のようでした。一瞬その場にへたり込みそうになりましたが、このままでは西洋医学に取り殺されてしまうのは分かりきっています。
まさに死力を尽くして一歩一歩階段をゆっくりゆっくり上って行ったのでした。 ようやくエベレスト登頂を果たし、しばらくは呼吸が苦しくて扉に手をかけたまま動けませんでしたが、それでもそこまでたどり着いた喜びが大きく喘息でなければ万歳三唱したい気持ちでした。 最後のドアを開けると、漢方の匂いと漢詩の額が飛び込んで来ました。 その時に直感したのでした。 「治る」、と。
お会いした松本先生は、「必ず治してあげる」と言ってくださり、握手してくださいました。とても暖かい手でした。 それを聞いただけでも蘇生の思いでした。
これまで地元で何十人もの内科の先生にお会いしたか分かりませんが気休めでもそういう風に言ってくださった先生は皆無でした。 まして、ここまで確信を以ってそうおっしゃってくれる先生に巡りあえた時点で、私の喘息はほとんど治ったようなものだったかもしれません。採血を済ませ、処方いただいた二袋もの漢方薬を宝物のように抱えて青息吐息ながらも意気揚々と帰路についたのでした。 前の晩にあまり眠れませんでしたし、やはり無理がたたったか、二日後に再度点滴をする羽目になりましたが、以降、次シーズンの12月まで点滴に通う事はありませんでした。
さて、何とか松本先生にお会いでき、お薬を送っていただけることになったのですが、喘息の改善は一朝一夕にとはいかないものでした。 いただいた煎じのお薬は大層苦く、また、茶色く濁っていて、某青汁のCMではありませんが、半年くらいは「う~~、苦い!」という台詞を口にすることなく煎じ薬を飲む事ができませんでしたが、それでも止めようと思ったことは一度もありません。前述しましたように当時は吸入すら効かないような状態でしたので、当初は朝まず煎じ薬を飲んで、吸入ができる状態に持ち込んでから吸入する、というような有様でした。
感覚的なものですが、も西洋薬がひたすら力で症状を押さえ込もうとしているのに対し、いただいた煎じ薬も飲み薬も、喉の粘膜を宥め鎮める鎮静作用があり、薬の持つ特性が全く対極にように思えました。それはステロイドを使えば使うほど喉の粘膜の過敏性が増して咳が止まらなくなったのに対し、漢方薬では緩やかな効果ではありますが、その過敏になった粘膜を修復し咳やムズムズ感が次第に治まっていった対照的な経過からも裏付けられるように思います。
最初はこれまで寝込んでいた分を取り戻したいという焦る気持ちが強く、 それから一年くらいは、いただいたお薬で多少具合が良くなると無理をしてまた寝込む、というサイクルを飽きる事なく何度も何度も繰り返しました。 無理をする、と言ってもちょっとポットを持ってお茶を沸かしたり、新聞を片付けたり、という程度だったのですが、当時の私にはそれすら”重労働”で、すぐに発作が起こり動けなくなるのでした。寒くなってからはとうとう無理がたたって二週間入院する羽目になりました。 もっと養生すべきだったと反省していますが、当時の私は全く体の自由が利かずにいた期間を取り戻そうという気持ちばかりが先走って空回りしていたように思います。
最初はお薬を飲んでも全く変化を感じる事ができず、変化を自覚できるようになるまで一年くらいかかりました。それくらい喘息をこじらせてしまった事には忸怩足るものがありますが、先生もお話されていたように、松本医院を訪れる方々は私と同じようににっちもさっちもいかなくなってから駆け込まれる方が多いのだと思います。もっと早く知っていたら、という気持ちはおそらく松本医院を訪れたどなたもが多かれ少なかれ思うところではないでしょうか。
それくらいこじれた喘息でしたが、それでも時間の経過とともに、色々と自覚できる変化が見られるようになってきました。まず最初に変化したのは咳です。元々私の喘息は咳を伴わない呼吸困難だけだったのですが、ステロイドの使用前後から少し風が吹いたり、飲み物の蒸気にあたっただけでも咳が止まらなくなっていましたが、咳き込む回数が目に見えて減りました。次に痰が良く出るようになりました。病院で点滴をしてもらうと痰が切れて楽になるのですが、痰が出るようになるという事は私にとっては非常に歓迎すべき事でした。
それでも喉のムズムズイガイガとしたむずがゆさが取れたのは随分経ってからで、最後まで症状として残ったのはやはり呼吸のしにくさでした。これは今でも急に冷え込んだり疲れが重なるとメプチンを使う時もありますが、それでも松本先生にお会いする前と比べれば劇的という言葉が誇張でないほど症状は改善しました。
初めて松本医院に伺ってから一年半後の平成22年の秋に松本医院に伺った際に、高速バスの乗り場までの急な階段をそれほど苦労せずに上れた時には、決死の覚悟で一段一段息をつきながら登った最初の診察の時を思い出して感動のあまり叫び出しそうでした。
喘息のほうはこのように大変ゆっくりとではありますが、順調に回復曲線を辿ったのですが、先生が予言されたとおり、喘息が大人しくなるのと時を同じくして、昨年12月中旬に何の前触れもなくいきなりものすごい眩暈と吐き気に襲われ、救急車で病院に到着して点滴を受け始めても吐き気が収まらず、かれこれ一時間近く吐き続けるという有様で、これまで喘息には随分悩まされたものの、消化器系は非常に丈夫でしたので、吐く事そのものと同じくらい心理的なショックが大きかったです。こんな時に喘息の発作が起こると厄介だなと頭の片隅で考えていましたが、不思議と発作は全く起こりませんでした。
松本先生の症状変化のお話を聞いて頭では理解していたつもりだったのですが、まさか喘息がアトピー等ではなくこんな風に”変身”するとは思いもよらなかったため、一体何が起こったのかと動揺と混乱は相当なものがありましたが、これも先生にご相談して、症状がそのように変わる事もあるというお話を伺い、またいただいたヘルペスのお薬のおかげで12月のように病院に行かなければならないような事はそれ以降起こっていません。症状そのものが出る出ないより、もし松本先生にお会いしていなければ、またぞろ病院で、検査漬け薬漬けになり、何より不安で一杯でこんな心の安心を得られなかっただろうとうと思うと本当にぞっとします。でも、もしお会いしていなければ、症状がヘルペスに移行するところまでおそらく辿りつけなかった事でしょう。
まだ疲れた時や頭を思い切り動かした時などにフラフラする事がありますが、生活に支障が出るような事はありませんし、あの生死の狭間を彷徨うような喘息の苦しさとは比較になりません。 時間はかかりましたが、最近になりようやくごく当たり前の生活が送れるようになり、それがどれほど嬉しい事か、健常な方には、普通に呼吸ができることが楽しいというこの感覚はおそらく想像ができないと思います。
思えば、西洋医学が自己免疫機能を代替することに意義を見出し図らずも自己免疫と競合・反目する立場に舵を切ってしまったことは、そしてその西洋医学が東洋医学や民間土着的な療法を凌駕して医学のスタンダードとなってしまったことは、人類の医療の歴史において最大の悲劇だったのではないでしょうか?
そして、人々は本来自分が治癒能力を有しているにもかかわらず、病気の治療を外部化してシステマティックに依存することよって医療が一大産業分野として肥大化し、結果として莫大な医療費を通じ世界の政治経済にまで及ぶ影響力を持ち、また個人レベルでは、まさに医学界に生殺与奪の首根っこを押さえられた形になって、唯々諾々と医師の指示に従うほかなく、そのことによってひいては自己免疫機能の弱体化や阻害を引き起こし、他方いらざる投薬等でアレルギー疾患は減るどころか蔓延し、ますます医療に頼らざるを得ない図式が構築されてしまった事自体、一つの悲劇と見る事は大げさでしょうか。そして、松本先生が指摘されておられるように、患者一人ひとりが自らの身体の声に耳を傾けることなく、ただ“あなたはこの分野の専門家ではないから”という医師のただ一言だけで思考停止し、自らの健康と生命を盲目的に委ねてしまうのは、本当になんという悲劇なのでしょうか。
松本先生のお話を伺っていると、松本医院に出会う前に試み、喘息を断ち切るには至らなかったものの共感を覚えた様々な療法が思い出されますが共通しているのは自己免疫を強化して病を克服しようというその方向性です。 断食療法で有名な石原結實先生は、著書で、“外科の先生の言うことを聞いて手術を行った者は誰一人数年後には生存しておらず、ただ先生の提案を拒否して石原先生の下で自己免疫強化に取り組んだ自分ひとりが生き残った”という患者さんのお話を掲載されていました。
また鍼灸治療の一種である井穴刺絡という施術を行っておられる稲桝先生から、“病気は自分で治すもの”という言葉をいただいた時、実際に自分の喘息治療を通じて西洋医療に十分懐疑的なつもりでいた私自身でさえ、“病気は病院で治してもらうもの”と知らず知らずのうちに思い込んでいた自分の思い込みの深さにはじめて気づいてひどいショックを受けたのを覚えています。 それくらい強固な”刷り込み”がなされている事をまず患者側は自覚しなくてはならないと思います。
NHKのクローズアップ現代で一見農薬との戦いに敗れたかに見える雑草が、数年後、農薬に耐性を持つスーパー雑草として更に強靭になって再び復活するというニュースを見た事があります。 中には解毒作用を持つ肝臓のような機能を備える雑草まで現れたとか。雑草に悩む農家の方々等には申し訳ありませんが、雑草のたくましさに心から快哉を叫ぶとともに、なんと素晴らしい自然の摂理かと感嘆すると同時に松本先生の遺伝子の2倍返し3倍返しというお話を思い出さずにいられませんでした。
そしてその遺伝子の反旗は本来人間と敵対するものではなく、その2倍返し、 3倍返しがあるからこそ、人間は分をわきまえ自然の摂理に対して謙虚でいられるのではないかと思っています。そしてこの考え方は何も医学に限定される事なく人間の社会活動全てに適用されるべき大原則のようにも思えます。 アトピー・喘息をはじめとするアレルギー疾患の蔓延は前述した強固にシステマム化した医療の囲い込みの構図に対する自然の摂理からの鉄槌ではないのでしょうか。
原発の爆発も人間の奢りがもたらした部分が少なからずあったと個人的には思っていますが、人間は人間を逸脱して神を気取ることはできません。大震災以前に、原子力行政において、原発の危険性を真摯に叫び続けてきた人々は常に在野で冷遇されていた構図はおそらく医学界においても全く変わらないのだと思います。
真実を直視し、それを認め、その前に頭を垂れる先生の姿は、自然に対してあるべき人の姿を指し示しているように思えます。 おそらく気の遠くなるような試行錯誤と尊い人的犠牲の上に、漢方を体系化した中国の先人達の絶え間ない努力と、その漢方に、免疫を邪魔する事なくそれを助けるという本質的な価値を見出した松本先生の慧眼と、そしてなによりもその真実の心もとない小さなカンテラただ一つを頼りに、医学界を向こうにまわして毅然と立ち続ける姿は、その困難さを鑑みれば、まさしく奇跡と呼ぶほかありません。 いつか先生はおっしゃっておられました。
“真実はひとつ、そして真実がすべて”
まさしくその通りです。しかしながら真実に寄り添い続けることがいかに困難かということは、私の想像をはるかに超えていました。 本当に棺おけに入らず今こうしてこの手記が書けるのも、松本先生と、先生の後ろに長く連なる、およそ検査機器も何もない時代にここまで漢方を体系化してくださった数知れない中国の先人達のお蔭であり、いくら感謝しても足りない思いです。 今回、その勇気と良心と飽くなきご努力への感謝と敬意に代えて、そして未だ松本医院に巡り会えず、病そのもののみならず、その対抗手段しとして絶対的かつ独占的な存在して立ちはだかる西洋医学の呪縛とそれによって齎される薬漬けというアリ地獄のスパイラルでかつての私と同じように苦しむ方々が一刻も早くそこから抜け出せるよう、にとの一存で本稿を書かせていただきました。
今、政治経済の分野ではこれまでのシステムが様々なほころびを露呈し、 あるいは破綻してその行き詰まりを露呈し、大変革期を向かえようとしています。医療においても既得権益の頑健さは決して他の分野に引けをとらないでしょうが、アフリカの政変同様、患者の側からの一大変革が起こることを願ってやみません。 そして、松本医院を訪れる方々はその”先駆”なのだと私は思っています。一人でも多くの方が自分の目で、自分の肉体で、真実を読み解き、救われる事を願って止みません。
我が家にはルルドという名前の犬がいます。あまりの喘息の苦しさに縁起担ぎでつけたような名前ですが、大阪の高槻に日本のルルドの泉は確かにありました。
同じ病に悩む人々がその泉を訪れ癒される事を願うばかりです。
最後までお読みくださりありがとうございました。

注目の手記・ブログ
● 「心と体(リウマチさん、ありがとう)」 安江 幸代 56歳
●かあさんくまさんの松本医院のアトピー治療ブログ
(2人娘はアトピっ子。「絶対に治る!」という主治医のコトバを信じ、ステロイドや抗アレルギー剤を使わず、漢方治療をはじめました・・・)
漢方科 松本医院について
ホームページについて
アレルギーは医学部の教科書には、現代の医学では治らないと書かれています。何故、一介の開業医である私は治すことができるのに他のお偉い方々は治らないとおっしゃるのでしょうか?いずれにしても、私が如何に大声をあげてアトピ-やリウマチが治るといっても変人扱いされるだけでしょうが、ここに証拠をお見せしましょう。ここで紹介される患者さんの手記は、巷に出ているノンフィクションの本よりも遙に感動的であり、今アトピ-や喘息やリウマチと戦いつつある患者さんの皆さんに大きな励ましとなるでしょう。このホームページを読めば、体の中で起こっている自然の正しい免疫反応を抑制してはいけないのに、見せかけだけを良くするために抑制して生じた薬害の後始末をすることが私の主な仕事となり、完治するのはアトピ-やリウマチだけではなく、同時に他のアレルギ-(アレルギー性鼻炎やアレルギー性気管支喘息やアレルギー性結膜炎)が全て消失してしまうのもお分かりになるでしょう。
患者さんが経験された厳しい症状などについて医学的な意味付けが赤字でコメントしているものもありますから、私のアトピ-やリウマチの治療法がさらによく理解できると思います。何回も読み返してください。この記録から、ステロイド・抗アレルギー剤・抗ヒスタミン剤・抗炎症剤の免疫抑制剤が一時的に症状を良くしても、結局は見せかけの治療薬に過ぎないことが理解され、とりわけステロイドの乱用によりステロイド皮膚症になった人が、いかにステロイドから脱却し、最後はアトピーやリウマチを治しきってしまうこともお分かりになるでしょう。
アトピー・リウマチをはじめ、全てのアレルギー・膠原病の治療において、一切ステロイドを使いません。
それは、ステロイドをはじめとする免疫抑制剤を使っている限り、アトピー(アレルギー)やリウマチなどの膠原病はもとより、全ての病気を治すことができないからです。また、私は何も漢方で治しているのではなくて、正しくは漢方を使って免疫を上げて、患者の免疫を高め続けることによって、自分でクラススイッチをしたり免疫寛容を起こさせたりする手助けをしているだけなのです。漢方が治したり、私が治したりしているのでもなく、あくまでもあらゆる病気は自分の免疫で治しているのです。
漢方治療中(治療中でなくても)、市販の風邪薬は飲まないでください。
市販で売られている、もしくは他医院で処方された風邪薬の中には、抗ヒスタミン剤や、抗アレルギー剤が含まれています。とりわけ、小児用の風邪薬の中には、必ず、ぺリアクチンという抗ヒスタミン剤が入っています。私のアトピーや花粉症の患者さんの治療が、なぜか長引いてしまうことが時にありました。この方々は風邪を引くたびに、このぺリアクチンの入った市販の薬を服用していた患者さんたちであることがわかりました。これらの風邪薬は、鼻水や鼻づまりなどの見かけの症状を取りながら、同時に、本来のアレルギーを抑制しています。風邪が治ったあと、必ずリバウンドが繰り返され、アトピーをはじめとするアレルギーやリウマチの完治が遅れますので、服用しないでください。
松本医院の「なぜ」
病気とは何でしょうか?
病気とは、人体に不必要な異物が侵入してきたときにそれを排除しようとする正しい免疫の働きに見られる症状のことを病気だといえば一番わかりやすいでしょう。となれば、病気とは否定的に捉えるのではなくて肯定的に捉えるべきものではないでしょうか?つまり否定されるべきものは侵入してくる異物であり、病気そのものではないのです。言い換えると異物が人体に侵入しない限り、免疫の働きは行使される必要はないのです。この世から人体に必要な5大栄養素と水と空気以外の異物が存在しなければ、病気は絶対に起こらないのです。言い換えると、病気を起こす原因は人体に不必要な異物なのです。
それでは異物には何があるでしょうか?2種類しかありません。ひとつは、病原細菌であり、ウイルスであります。これらはワクチンと抗生物質で征服されてしまいました。つまり、間単に殺すことができるようになったのです。このために人類の寿命は飛躍的に延びました。ふたつめは何でしょうか?まさに近代化学が作った化学物質であります。この化学物質が人体に侵入したときに、それを排除する免疫の働きの症状がアレルギーとなるのです。
アレルギーとは何でしょうか?
アレルギーとは環境汚染物質を体内から排除する働きであります。何故アレルギーは増えたのでしょう?環境を汚染する農薬をはじめとする化学物質が極めて多く作り出されるようになったからです。実はリウマチもアレルギーのⅢ型であります。
膠原病とは何でしょうか?
膠原病はアレルギーと同様、環境汚染物質という同じ敵を排除しようとしています。ただ、膠原病はIgG抗体を用い、アレルギーはIgE抗体を用います。つまり武器を変えて戦っているだけの違いなのです。
アレルギー・膠原病はなぜ治るのでしょうか?
敵は無限に存在する化学物質や環境汚染物質であり、味方はアレルギーの場合は有限であるIgE抗体であり、リウマチの場合はIgG抗体やリウマチ関連抗体であります。排除しても無限に繰り返し入ってくる化学物質を永遠に排除することは不可能であり、有限は無限に絶対に勝つことはできないからです。ところが現代の医学は異物を排除しようとする免疫の働きを一時的に抑制するだけですから、IgE抗体やIgG抗体やリウマチ関連抗体が再び作り出されいたちごっこになり永遠に戦いが終わらないのです。従って免疫の働きを一切抑制せずにアレルギーの症状を楽にしてあげるだけで最後はIgE抗体やIgG抗体やリウマチ関連抗体が作られなくなるのです。これを発見したのは世界で私が初めてなのであります。これを自然後天的免疫寛容と名付けたのです。
リウマチの患者さんの家族の皆様に
他医院で治療をされていない初期のリウマチは、「風邪よりも治すのが簡単である」と言っても過言ではありません。しかし、私の患者さんは当院に来られる前に間違った現代医学の免疫を抑制する治療を受けて来られる方がほとんどです。従って、私の治療を始めると、間違って受けてきた治療の度合いに応じて、多かれ少なかれ必ずリバウンドが出現し、それに伴い、痛みが増強します。大量のステロイドを注射されたり飲まされてきた人、長期に渡って他の病院でリウマチ治療を受けてきた人は、激しい痛みのために、自分自身の身の回りの世話が不可能になる事態もしばしば遭遇します。
そのために、私の治療を受け続けるには、絶対に家族の協力が必要となります。ところが、遠方から来られる方や、お年寄りの方の中には、リウマチ治療の困難さを全く理解せずに、すぐにリウマチが治ると思って気軽に一人で受診される方がいます。実際の治療の困難さや、具体的な私の治療法、何より私自身を知ってもらうためにも、初診時には必ず家族の方と一緒に来て下さい。また、患者さんはもちろん、家族の方も私のホームページに記載されている理論とその証拠である手記を繰り返し読み、私の理論と治療法を理解してから来て下さい。
また漢方薬だけでは絶対にリウマチを治すことは出来ないのです。他の免疫を上げる鍼・お灸・漢方風呂などを総動員して初めて徐々に免疫は回復し、上昇し、最後はクラススイッチし、自然後天的免疫寛容となるのです。